「らうん」とは僕がかつて暮らしたパプアの言葉で「旅する・ぶらぶらする」という意味です。光を描く画家、八坂圭が日々を見つめ、愛し、感じた事を福岡からつづっています。


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「薔薇十字会の神智学」より その6

みなさんこんばんは。

今日は遅い時間の更新です。

子供たちが寝てから、ゆっくりとした時間を持つ事。今日一日の子供たちの笑顔が浮かびます。息子は水疱瘡にかかっていましたが、随分良くなって、今日は庭の芝生に水を撒きながら、びしょびしょになって、よろこんでいました。

さて、今日の一節です。


「霊視的に見れば、光の中に死者たちを見出すことができます。死者たちは光で織られた体を持っています。地球の周囲に注ぎかかる光が、神界に住む者たちの素材なのです。太陽の光を受けて成長する植物は、単に物質的な光を浴びているだけではなく。霊的存在、そして死者たちが光の中で植物に働きかけているのです。」


このことが語られている章では、人間の本質が、肉体の死を迎えた後、どのような状態にあるかを、シュタイナーの霊眼に映じたまま、また、薔薇十字会に受け継がれた叡智の情報のまま記されています。

この日記では、あまり、そのあたりの詳細について述べたくないのですが、プロセスをはしょって、いいますと、人間の本質が、死後、いくつかの段階を通って、しかし、神界に存在するようになります。

「千の風になって」、大ブレイクしましたね。僕も、改めてあの歌詞が歌として聞こえてきたとき、先立たれた、恩ある方への思いと、その方々がいつも側で見守っていてくださる実感とがあふれ、うれしさと、なにかこみ上げる思いで、涙が出たのを覚えています。

そのように、死者たちは、神界にいて、光のなかに見出され、また風の中に生きていると言われるのです。

このことを、イメージしてみましょう。

芝を貼って、次の日は雨がしっかり降りました。そして翌日には煌煌と晴れて光が降り注ぎました。子供たちが水をまくと、水滴は光を反射し、キラキラと喜びを表現します。

この光を植物たちはまとい、その命を全うさせます。

庭の向かいには、雑木林があり、そこにはすこし古びた楠がいます。楠も光を受け、しかし、少し鬱蒼とした木陰をまわりの低木たちに投げかけています。

ここに、神界からの死者たちの働きがあるのです。

あまねく光の存在たちが、アストラルを持たないエーテルと物質から成り立った植物を祝福し続けるのです。その祝福をうける資格が植物たちにはあり、その点において諸靴は我々よりも完成しています。

その完全性は愛を表して、われわれは植物から、花から、光と愛を受け取る事ができるのです。

その愛と光は、私たちと本質ではつながっている、かつて生きた者たち、これから生きる者たちの愛と光なのです。

われわれは、日々、根源の一つであるエネルギーの分霊として、この地上の生活を営み、学び、感動を重ねて、創造のプロセスのなかにいます。

どのプロセスの一点も、やり直しがきかず、一回きりの、唯一無二の今です。

そして「あなた、わたし」という存在も、二度とは表れない一回性の真実です。

で、あるにも関わらず、この「私」という本質がどれほど普遍で永遠のものなのか、どれほど無限の愛の一部であるのかを、初夏にむかう晴れの日の光にきらめく植物たちは教えてくれるのです。

光の本質ということを見ていく時の、これは、一側面でしかありません。


この地上でかつて学んだ先人たちが、より、高次の学びをへて、多くの愛の情報を携えて地上に降り注いでいる。

一側面でしかないとしても、そのようなイメージをわれわれが持つとき、外界に向けられる目は、より豊かさを増していくように思います。

さあ、今夜も遅くなりました。

いつも、お付き合いいただいてありがとうございます。

あなたに、祝福の光がありますよう。

それでは、また。





 
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by toktokpng | 2008-04-26 02:57 | 創作