野ぼたん
2008年 10月 22日
保育園に朝子供たちを連れて行くとき、通りがかりに野ぼたんが咲いている。
もうかれこれ、ひと月くらい咲いているように思う。
濃い青紫が、逞しく、垣根に色を添える。
母とその事を話す。「うちにも昔あったのよね。とっても丈夫で、雑草みたいにつよいけど、葉の形も雑草のようでね、庭木としては今ひとつかも。」
たしかに、逞しすぎるきらいはあるかもしれない。
でも、とっても立派な花の形と、茎にかかる少しの赤みは、とても装飾的だ。この花が名前のごとく山の低地で野の中にあれば、野暮な草花たちのなかで異彩をはなつ艶やかさだろう。
山に登り、辺りを散策して、汗をかき、裾野に下りてこの花に出迎えられたら、美しい精霊にねぎらわれたように感じるだろう。
住宅地の垣根では、彼女の舞台に足りないのかもしれない。
「私をあるべき場所におくもの。」
そんな言葉がきこえてきた。
玄関先の鉢植えに、ハロウィンの人形をみつけてよろこぶ娘。カボチャの形の陶器のランタンに火をつけたがる息子。保育園の帰り道はもうすっかり暗くなっている。どこで覚えたのか「ハロウィンのお菓子は?」と道すがらねだる子供たち。付き合いのある方達が、今年自分に縁のある田んぼから穫れたお米を持ってきてくれたり。
花が移り変わり、収穫祭をむかえて、秋が深まっていく。
「受け入れるもの」
受け入れるもの
あなたの宇宙
わたしの宇宙
奇跡のように
指でふれあう
子供も、挨拶だけの知人たちも、花も雲も、耳に聞こえない音楽を奏でている。それぞれの周りに楕円の境界をもちながら。
僕が呼吸をして、その境界に振動を響かせるように、それと呼応する存在が宇宙に満ちて行く。そのようにして、激情を過ぎ去り、愛は淡々と僕らを満たす。
新たな地平は、いつも、目の前に。完全な調和として用意されている。
今日、またこうやって日記を読んでくださった皆さんとともに、静かに響きあう今を。
愛しています。
ありがとう。
Much Love.
Kei
もうかれこれ、ひと月くらい咲いているように思う。
濃い青紫が、逞しく、垣根に色を添える。
母とその事を話す。「うちにも昔あったのよね。とっても丈夫で、雑草みたいにつよいけど、葉の形も雑草のようでね、庭木としては今ひとつかも。」
たしかに、逞しすぎるきらいはあるかもしれない。
でも、とっても立派な花の形と、茎にかかる少しの赤みは、とても装飾的だ。この花が名前のごとく山の低地で野の中にあれば、野暮な草花たちのなかで異彩をはなつ艶やかさだろう。
山に登り、辺りを散策して、汗をかき、裾野に下りてこの花に出迎えられたら、美しい精霊にねぎらわれたように感じるだろう。
住宅地の垣根では、彼女の舞台に足りないのかもしれない。
「私をあるべき場所におくもの。」
そんな言葉がきこえてきた。
玄関先の鉢植えに、ハロウィンの人形をみつけてよろこぶ娘。カボチャの形の陶器のランタンに火をつけたがる息子。保育園の帰り道はもうすっかり暗くなっている。どこで覚えたのか「ハロウィンのお菓子は?」と道すがらねだる子供たち。付き合いのある方達が、今年自分に縁のある田んぼから穫れたお米を持ってきてくれたり。
花が移り変わり、収穫祭をむかえて、秋が深まっていく。
「受け入れるもの」
受け入れるもの
あなたの宇宙
わたしの宇宙
奇跡のように
指でふれあう
子供も、挨拶だけの知人たちも、花も雲も、耳に聞こえない音楽を奏でている。それぞれの周りに楕円の境界をもちながら。
僕が呼吸をして、その境界に振動を響かせるように、それと呼応する存在が宇宙に満ちて行く。そのようにして、激情を過ぎ去り、愛は淡々と僕らを満たす。
新たな地平は、いつも、目の前に。完全な調和として用意されている。
今日、またこうやって日記を読んでくださった皆さんとともに、静かに響きあう今を。
愛しています。
ありがとう。
Much Love.
Kei
by toktokpng
| 2008-10-22 20:03
| 日常