子供という奇跡
2009年 06月 13日
今日は保育参観。
話しはいつものように飛びますが、「凡庸」と「中庸」という事を思いました。
生きる事への感謝と、宇宙に満ちた愛の奇跡に委ねて生きる新しい僕らの日々にとって、「中庸」であること、こだわりのない事は、どこまでもどこまでも重要な事です。
けれど、中庸ということと、凡庸という事は微妙に違います。
微妙なのです。
中庸を歩む姿が凡庸に映る事も、凡庸な生き方が、中庸を体現してることもある。
ex(外れた) centric(中心) エキセントリックなのでなく、super centricな在り方が、非凡に見える事もあります。
参観のあとは、保護者会があって、「子供を褒める」ということをテーマにグループディスカッションの時間を持ちました。
僕は口癖のように、「すばらしいね、愛しているよ」と子供たちに声をかけています。
理由は特になく、溢れてくる言葉です。
僕のグループのお母さん方は口をそろえて「あまり意識的に褒めてません」とおっしゃいました。
だけど、どうでしょうか!
お母さんたちの輝きを観ると、泣き出しそうなくらい素晴らしい子供たちへの愛が輝いている。
けれど、それらを表出させないように、家庭でも、社会でも、クセづけられて来たのでしょうか。
「子供という奇跡」
僕はそれ自体は、なんの恣意的判断も理由もなく、無批判に受け入れられるべき始点だと思っています。
どんな物質的プロセスも、人間関係のドラマとも独立した、ひとつの「存在」という奇跡です。
すべての、一人一人が。
その「奇跡」にさまざまなドラマや理論の札を付けていては、見えて来ない輝きがあると思っています。
札を、とりましょう。
小学生になるまでに、「出来ていなければならない幾つかの生活習慣」という札があったら褒められないというのなら、まずその札を外して奇跡を眺めましょう。
「子供という奇跡」は「地上の社会性」側に従属するものではありません。
7年程の時間をかけて、愛深い「奇跡」が徐々にあわせてくれている、プロセスがそこにあります。
しかし、それは、奇跡そのものにとって、最重要課題ではありません。
子供という奇跡を、凡庸なものとみるか、子供との時間のなかに中庸を見いだすか。
そこには、無限の魂の学びが隠されているように思います。
さあ、今日はもう、保育園はおしまい。お家に帰ってたくさん時間があるね。
ひいばあちゃんと散歩しよ。
ばあさん、植え込みの花はあんまりちぎらないでね。
すこしくらいなら、いいけどね。
碧くんもちぎったんだね。
「おとうさんにあげる」
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「四大」 文・絵 八坂圭
by toktokpng
| 2009-06-13 14:50
| 日常