「らうん」とは僕がかつて暮らしたパプアの言葉で「旅する・ぶらぶらする」という意味です。光を描く画家、八坂圭が日々を見つめ、愛し、感じた事を福岡からつづっています。


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カテゴリ:本( 3 )

話題の人、安倍氏の著作。この一冊前に読んでいた「代表的日本人」と良く似た空気感を感じた。それは一言で言えば「純朴さ」だと思う。

今日は終戦の日。
心を合わせ祈る時、戦いで命を落とした何百万ものスピリットが世界を分け隔てなく、平和で美しい地上の世界が実現するようエールを送ってくださってるのを感じる。

感じかたは人それぞれで、その個別性こそが「心の問題」で、それがどんな力にも「干渉されるべきではない」という議論には賛成だ。

ただ、「心の問題」以外では、大勢の他者の意向に答えうるかぎり応じていく。
そのバランスが高い緊張の上に築かれるとき、それが人物の魅力となるのではないだろうか。

一国のオサになるには、まず人間的魅力だと思う。

パプアの村でも、奥さん連中に評判がよくないと、2枚目だろうが、金持ちだろうが、ビッグマン(リーダー)には成れなかった。

緊張感のある、高いバランスを保つには、「純朴」なだけではだめなんだ。
新しいこの国のリーダーの資質について。
言葉にしてしまえば、逃げて行く本質。それを際限なく言葉で捉えようとする影法師を追うような議論が山と積まれるだろう。

その中で、「心ある人」である安倍氏が人の魅力を表してくれる事を楽しみにします。

61年目の静かな夜に。
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by toktokpng | 2006-08-15 23:16 |
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金曜日に以前紹介したオーロラさんにあいました。CGイラストレーターのURANさんもいっしょ。子供が生まれてめでたい話の楽しい時間の後、オーロラさんと僕は男同士二人きりになって、カガクについて熱ーくかたりました。カガク好きが二人集まると止まらなくなるのですが、無理矢理きりをつけてどうにか3時頃には帰り着きました。
そのときにオーロラさんは、これからどんどん良い「サイエンスコミニュケーター」になりたいと言う話をしていたのですが、そこで思い出したのがこの本。
もう8年くらい前に邦訳された本で、今は文庫で売られています。

サンタ・フェと聞けば何をおもいだしますか?僕は30歳なのですが、だいたい同じくらいの年の人なら、まず「宮沢りえ」ですよね。それもそれで非常に衝撃的だったのですが。
まあ、しかし、「サンタ・フェ」という所は、もひとつ衝撃的な場所だったのです。サンタ・フェ研究所という場所があって、そこで本当に革新的なハプニングが雪崩のようにおきていたのですねえ。

なにが革新的かと言うと、全く違う研究分野のトップレベルの研究者が世界中からサンタフェにあつまって、お互い教え合い学び合い、わらっちゃうくらい楽しそうなビジョンを次々に共有していったというのです。

いまは、サンタ・フェ研究所は同じ形では続いてないと思います。
その研究所があったころの専門的な内容の面白さを、専門知識のないぼくらにもわかるように本にしてくれたのが、ミッシェル・ワードロップさんの「複雑系」です。まさにサイエンスコミニュケート。
当時この本をよんだ興奮はすごいもので、それを参考に絵を描いたらちょっとした賞ももらってしまいました。

オーロラさんの「オーロラのしくみ」のページも、専門的な事をわかりやすく教えてくれます。でも、彼の話を聞いているとそれだけじゃなく、いろんな「楽しい科学」をわくわく感とともに伝える仕事をしていきたいというのです。そのために公共の科学館とも協力していきたいと。
なんか、でかーい話で僕は「おぉ・・」としか反応できなかったのですが、是非やってほしいですねー。

科学というのは、科学でわかった事を利用して便利な物をつくる事ではありませんよね。コンピューターやケイタイは「科学」ではありません。それは科学してるうちにできた道具です。「科学」はただ単に考える事です。わからない事を考えて、少しずつわかってくる事です。
わかるといっても、仮定の文法を複数の頭脳で共有し、その文法上では目の前の現象どう説明できるかという意味の「わかる」であって、文法が違う考え方のなかでは特に意味を持たないほどの「わかる」なのですが。
それでも科学がすてきな理由のひとつは「数学」という現在のところかなりの普遍性をもった文法があることです。この文法はきっと何千万年後かに全く違う形態の文化が宇宙上で発生しても、きっと解読可能なくらいに純粋化されている文法です。だから、この文法で説明できる事というのは、その程度の普遍性は持ってると言えるでしょう。
でも、オーロラさんが言ってました。ものほんのオーロラ科学者にじっくりお話をうかがっても、「オーロラという現象がなぜおこるか、本当の事はほとんどわかっていないんです。」と。

そうなんですよね。科学の事をしらないと、「科学が発達してるから、人間は地球のこと宇宙のことなんでもわかってる。」と思ってしまいそうになるんですが、科学の事を知ると「おー!こんなにわかんない事だらけだったのか!」ということがわかるのです。
にこにこした好きな人がそばにいると病気がなおったりするのも、「ツイてる」って言ってるばっかりのひとが幸せで億万長者になったりしちゃうのも、ありのままの現実なんですが、なぜだかなんて「わからない」んです。

で、そんな不思議な事だらけの世界を「考える」のが、「科学」。だから、どこまでも考え続ける事が出来る、遊び続ける事が出来るのが、ハイパー遊園地「科学」

そのハイパー感を感じ取れる科学館、ぜひつくってほしいですねえ。

そのためにこの本はきっとヒントの宝庫だと思うのです。とにかく読んでもらうしかないんですが、僕らがうまく言葉で表せない神様の愛や自然のいたずらっぽさや、存在の幸せをいつか科学でつかめる日がくるかもっ!という期待が芽生える本です。

先週、偶然にもこの本を電車で読んでるひとを見かけました。当時も結構なベストセラーだったのですが、売れ続けてる本なんでしょうかね。

この本の事を思い出させてくれてありがとう、オーロラさん。
そして、おすすめです。
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by toktokpng | 2005-05-01 21:40 |
ブッダのことば スッタニパータ 訳-中村元

この本はパプアニューギニアにいたときに、現地の言語を研究しにきていた若い研究者の方に教えてもらった本でした。言語学の視点からみてもとても面白いという事でした。
日本にかえってきてさっそく買ったのですが、なかなか読み進みませんでした。本の半分以上が注釈で、一つ一つの句にパーリ語の原典ではどうなっているか、サンスクリットの解説本ではどう捉えられてるか等が書かれています。
生真面目に一つずつ注釈をあたっていると、すぐに疲れてしまって前に行かないのです。
それで、しばらく寝かせていたのですが、最近すらすらーっと読み終えてしまいました。

本ってそういう事ありますよね。手に入る時期、読む時期、再度読む時期など。
いろんな偶然のきっかけが重なってすんなり自分に入ってくるとき、本にも出会いというものがあるんだろうなあと直感します。

で、スッタニパータですが、この言葉はスッタが「たて糸」「経」の意味で、ニパータが「集成」の意味だそうです。たて糸が集まったものということなんですね。ハタオリでは、まずたていとがきちんと準備されていないと布は織りあがりません。ハタオリではたて糸を張ってそれから何ヶ月もかけてよこ糸を重ねて、立派な布を織り上げていくのですが、「目覚めた人が言われた、人が生きる事において、たて糸となることの集大成ですよ」という本なのでしょう。さあこれだけのたていとを張りましたよ。ここに毎日一本ずつよこ糸重ねてよい人生を歩んでください。と、そういう本なんだなと思いました。

訳者の中村元さんの本は他にも読んだ事があるのですが、仏の教えを形式からではなく、最初にブッダが話し、立ち振舞った時の臨場感を捉えようという熱意がとても伝わってくる方だとおもいます。

この本もそうでした。スッタニパータは中村元さんの解説によると、ブッダが話したその時代に一番近い原典の一つといえるそうで、シャカ族のゴータマ・ブッダさんがどんな時代背景で、どんな風に捉えられてたのかを想像するには最も適した書だと言う事です。

注釈と解説を通じて、中村さんが訴えていることは、神格化され、神のように上げられてしまう以前のブッダの姿がそこにあり、目の前に生身のすばらしい人として居たんだという事。その時代修行僧は多数おり、みなから認められる人はブッダ(目覚めた人)と呼ばれていたんだという事。

そのようにして人間として捉えていくとき、なにか自分には出来ようも無い難しい戒律を述べてるのではなく、人間なら誰でも出来る簡単な事だよ、出来てる人いっぱいいるんだよ、あんたもできるよ。と言ってるように聞こえてきます。

それから、その時代、インドは農作に豊かであったこと。つまり、太陽の光とたびたび氾濫する河のおかげで、大した労働もせずとも収穫を得られ、飢えるということが無かったという背景。だからこそ、人々は共同作業を発展させず、個人の内面をかえりみる時間を得て、修行者が増える内省的傾向をもっていたという見解。
南半球のあたたかい大地の植物の恵みというのは、パプアでの生活からよくわかります。彼らはいつも「この国にいて、お金がないから『飢える』ってことはない。食べ物はつねに『ある』」と言っていました。たしかにスーパーの肉だとか輸入物の野菜なんかはお金がないと買えませんが、食べ物は『ある』と。
しかし、それで内省的にということはパプアに関しては無いように思いました。共同や共有ということが社会インフラになっていて、そのなかで人生というものは紡がれていくようでした。
そんな違いもありつつ、自分のそのような経験から、食物は自然が与えてくれる生活の中で、人間の努力がより形而上のものに向けられるのは自然な事だと感じられるようになりました。

ですから、ブッダが解かれた事というのも、「そのようなインドで、」という前提を思い起こしながら捉えていくと、より本質的な事がみえたり、自分がいる環境では字義通りにとると、誤謬を生み事になるなということも見えてきました。

なんせ、この日本という場所では、昔から耕し、植え、刈り取る事が重労働で、みんなで協力して、必死でやらなければ「飢え」たのですから。今では分業化して直接土を耕す人の方が少ないですが、働かなければ「飢え」るのは何も変わっていないのですから。

おのずと、違ってきますよね。

ですから、「目覚めた人」というのを、同時代や異時代の、同じ国のひと、ブッダよりは身近な人で、でも立派だなあと思われる人と比べて、それでもブッダには及びもしない、あちらは神なんだからと思うのではなくて、きっとみんなの周りにもいると思うんですよ。目覚めちゃってる人って。けっこう近所のおじさんみたいに。
そういう人の話もちゃんときこうよっていうことかなと。もしくはブッダのことばも近所のすげーおじちゃんが言ってるんだっておもって聞きなよって事かなあと。

最初に言葉を発した時はそういう生き生きとしたものだったかもしれない。だけど二千年以上の間にいくつもの言語を渡り歩き、時代とともに言葉もかわり、何かにがっしりと塗り固められた表面しか普通では見えない。
しかし、言語学的手法を使い、学び、研究すれば、そのさきにある生き生きとしたものに出会える。
言語学の力というのを、たしかに感じ取れる本でした。

二千年たって、もしこのブログがなにかで残ってても、判別不可能で呪文みたいに思われてしまうでしょう。たいがいいい加減なこと書いてあっても、なんかいいこと書いてあるとおもわれたりしかねません。

で、ちゃんと学究の徒がいて、「うん、これは駄文だ。」とちゃんと判別してくれたら、そしたら、この時代に書かれたいいものも、きっと理解してくれる人がいるでしょう。

ああ、言葉を掘り下げて時空を旅させてくれてるんだなあと。

そんなふうに思える一冊でした。
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by toktokpng | 2005-04-17 02:16 |