「らうん」とは僕がかつて暮らしたパプアの言葉で「旅する・ぶらぶらする」という意味です。光を描く画家、八坂圭が日々を見つめ、愛し、感じた事を福岡からつづっています。


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カテゴリ:パプアニューギニア( 8 )

埼玉県の鶴ケ島市という、すこしだけ辺鄙なところに1,725点ものニューギニアを中心とした地域の文化財が保管してある。
何度かこのブログでもその事を書いたが、とにかくすごい質と量だ。
いろんな経緯があって、現職の市長はこの文化財をお荷物としている。
文化的価値も認めず、ただただ放り出したい気分にかられているようだ。

大人げない。

それでも、この文化財との出会いがいろいろな出会いを生み、現地の人々との交流を呼び込み、その交流のなかで、多くの子どもたちや、心ある大人達が集い、いつくしんできた。

今回は市の協力を得ずに、鶴ヶ島の市民や有志の人々、またニューギニアの村人たちの寄付金で彼らの渡航費をまかない、来日が実現した。

今日は、彼らの舞踏を鑑賞するのではなく、彼らの文化について、語り合う会。

僕が司会と通訳を務めさせてもらった。

一番ぐさりときた内容を要約しようと思う。

日本では、子どもたちの引きこもりや親殺し、自殺などの問題が社会問題としてある。
ニューギニアには学校がない、学校に行かせるにも教育費がない(ニューギニアでは初等教育にもお金が必要)という常在的な問題がある。
ブイのメンバーは日本の新潟パプアニューギニア協会というグループが、彼らの村に学校やノート・鉛筆などの提供をしてくれている事を感謝している。
そして、彼らの村の価値観や文化を日本の子どもたちに伝える事で、日本の子どもたちが抱えてる問題の解決の糸口を与えられたらとおもっている。そのため、数回、新潟の子どもたちが彼らの村を尋ねている。

なんで、日本の子どもたちの心が空虚になってしまったのか。
彼らの発言。
日本の子どもたちは多様な価値観の中で混乱しているのではないか。また、親もそのような社会の中で、どのような価値観を示唆する事が出来るのか逡巡しているため、子どもは何に従って良いのか解らないのではないか。大人が逡巡する理由として、日本のようにお金がなくては生きていけない国では、子どもたちを将来お金が稼げる子に育てるしかしょうがない。しかし親たちもどのようにしたら恒久的にお金を稼げるか知らない。だから、確固たる価値観などは示し得る筈もない。
一方、我々の村社会では、「父母が第一の教師だぞ」と明確に伝えている。それでも言う事を効かないときは、一族の叔父連中がとくとくと子どもに教え諭す。一族の道徳について。もし彼らが言う事をきかなくて出て行ったとしても、森には彼らが飢えないくらいの食べ物はあり、我々の価値観が現代社会において非生産的であったとしても、畑には充分食べ物がある。だから先祖から引き継いできた価値観を子どもたちに伝える事にためらいはない。

要約すると、このような意味だ。

我々は豊かな土地に生きている。あなた方は貧しい土地に生きている。それぞれの苦しみがあるのが実相だ。

まさにその通りだと思う。

しかし、日本には豊かな精神が息づいていた過去がある。
また、その美風はおちこちにぱらぱらと息づいている。

十六夜の今夜、「昨日、月をみたかい?」と、ブイのメンバーに聞いた。
こういう話題は、職場でも家庭でもまず盛り上がらない。
ブイのメンバーは、5、6人で声を合わせ
「イエース!!見た見た見た見た!!! まんまるだったよなー!」
と、いきなり盛り上がった。

月のきらめき、草花の成長、雲の行く先、空の色の変化。

これらの事を話題にするとき、ニューギニアの彼らとはすぐに気分をともにする事が出来る。

様々な修辞法がなくても、人間は自然美と対面する事が出来るはずなのだ。
なぜ、彼らにはそれが出来て、僕らはそれが苦手になってしまっているのだろう。

やるせない気持ちが多く残り、彼らと別れた。
再会・別れ・また会える日を望んで。

ありがとう・ブイジェネレーション。
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by toktokpng | 2006-10-09 01:59 | パプアニューギニア

鶴ヶ島での精霊展

僕がパプアニューギニアに行くきっかけをくれた、埼玉県鶴ケ島市のオセアニアコレクション。
二年間嘱託員としてコレクションに関わったけれど、なかなか市民の中にその価値や面白さが伝わらず、力及ばず退職し、コレクションは新しい市長のもと、整理する方向を模索しているようです。

それでも、地元の人々の尽力により、今年も恒例の一般公開を行いました。

僕はなにも協力できなかったけど、土曜日に遠出して行ってきました。
ちょうどマウエ大使(在日パプアニューギニア全権大使)が来られていて、ひさびさの邂逅。
大使はまだ僕を覚えてくださっていました。
鶴ヶ島の小学生・中学生たちも僕の事を覚えてくれていて、一緒に竹楽器を演奏しました。

鶴ヶ島の定番となったこの竹楽器作り。ニューギニアの竹楽器をヒントに子どもたちが手作りで竹をきり、穴をあけて、ナイフでリードを作って、鳴らします。

講師役の民族音楽活動家・中川さんが「音を鳴らすときに、森や林や川をイメージしながら、吹くんだよ」と教えます。

みんなでつくった竹笛・竹ボラの合奏は、目をつむると、パプアの海や山や空を思い出させてくれました。

久々に会った精霊像たちも、まだ、いきいきとした精霊をそのカラダに宿して、これからの行く末をじっと受け止めるため、座していました。

この、すばらしきものたちを。

投げ出すしかない、地方の小さな政府自治体。

僕らの国の本当の貧しさをいたいほど、見せつけられるのです。
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by toktokpng | 2006-02-20 00:29 | パプアニューギニア

シェアリム グット

久々にピジン語です。これは「うまく分け合おうね」という意味です。
ピジン語は、英語が大きなもとになっているので、これは share と good がくずれてこうなってるのです。

昨日、桃を食べたとき、「桃って家族で食べてると、いつも食べ足りないくらい美味しく感じる」と思いました。「一人で生活してた頃、好きなだけ買って食べた事ないの?」と妻に聞かれて思い出しました。
買ってきて食べた事あります。そして、別にあまり嬉しくなかった事も思い出しました。

さっき、お隣からもらったカルピスを飲んでいると、一歳と7ヶ月の長男がしきりと欲しがります。
分け合って飲んでると、カルピスってすぐなくなります。それで、カルピスもいっつも飲み足りない感の残る飲み物だなって思い、自動的に、学生の頃好きなだけカルピスを買ってきて飲んでも、ちっとも嬉しくなかった事を思い出しました。

なんででしょう、だれかと分け合っていると、美味しさが増して、より欲しくなる。
カルピスだって、桃だって、食べ足りない、飲み足りない、でも、オイシーと思える。

分け合うと幸福感が増える。

ニューギニアでは、バナナが一本しかなくても、兄弟と分け合います。
魚が一匹しか捕れなくても、家族でわけあいます。ひもじくなくてもです。
ちょっとの物でも、たくさんの物でも、分け合う事が楽しみなのです。
そんなふうに、リマ母さんから教わりました。
「シェアリム グット。それが、パプアニューギニアの文化なのよ。」

足りないから分け合う。奪い合ってしょうがなくわけあう。そういう事と正反対なのです。
もっと幸せになりたいから、手に入れた物を分け合う。
もっと、楽しみたいから大事な物を人と分かち合う。
これが、幸せの秘訣だとパプアニューギニアのビックマンは言いました。

桃とカルピスの事とパプアニューギニアの「シェアリム」がつながって、妙に納得しました。

今日で僕の夏休みは終わり。どこにも行ってないし、特別なイベントもなかったけど、家族の笑顔を家族で分け合えました。そして、本当にそれは旅行をしたのと同じくらい幸せでした。

分け合うと、幸せが増える。
これは、相対性理論や不確定性理論と同じくらい真面目で、考察すべき原理なんじゃないでしょうか。

まだ夏休みで幸せが足りないと思ってるかた、是非この原理に基づいて実験してみてください。
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by toktokpng | 2005-08-15 00:01 | パプアニューギニア

ゴロカからの便り

僕がパプアニューギニアで通っていたゴロカ大学の職員クリネットから、久しぶりにメールが来ました。
-冒頭省略-
Goroka was hot and dry for the last 7 months but last week and now it starts rainning. The place looks flesh and green. The road here is sealed and Goroka down is generally clean. All the Prime Ministers of the Pacific Countries are going to meeting here in Goroka this month (August). The place of meeting is at the University of Goroka Auditorium. Some of the paintings will be displace in the new Library and I believe they will come to the Expressive Arts Building to have a look around. Your paintings are still up on the wall were it was. Lik lik nius bilong Goroka.

ゴロカはここ七ヶ月、暑くて乾燥した天気が続いていたけど、やっと先週雨が降り出してきたところ。おかげで、緑がまぶしくなってきました。道路もちゃんと舗装されてきて、まあ概ねゴロカの街はきれいに保たれてるわ。
今月、太平洋州の首脳たちがここゴロカで会議を開く事になったの。場所はゴロカ大学の視聴覚会館。(美術科の)作品のいくつかは新図書館に飾られるでしょうし、首脳たちはきっと美術室に絵を見に来ると思うわ。あなたの絵は、まだ、あの壁に飾られたままですよ。ゴロカからのちっちゃなニュースでした。

といった内容でした。

昨日は、22時間勤務でした。今朝帰ってきて、今日と明日、夏休みです。

ゴロカに残してきた絵も、人の目をまだ賑やかしているのなら、この夏休み、
悪くない作品を生みましょう。
家族の理解のもとで。

ありがとうクリネット。
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by toktokpng | 2005-08-11 19:37 | パプアニューギニア

お金のこと

パプアの生活のなかで、日本の友人たちとパプアの人々の意識の違いを感じたのがお金のことでした。

お金が大事にされてないというか、お金がなくても生きている人々がいるなかで、お金があぶくのようにおもわれていました。(もちろんそんな人ばかりではないですが)

そしていくつかのパプアでの(目先だけかんがえたら)損した出来事のために「お金の正体」みたいなものを感じることが出来ました。お金の本質は「約束」なんだな、と。

だから、口約束が多く、なかなか話が現実にならない(笑い話ばかりしてるのだから、それでいいのですが。)生活のなかには、お金は似つかわしくないのだなあと。

美大の友達たちやその周辺と、大言壮語して、酒をのみ、散歩ばかりしている生活にもお金は似つかわしくなかったし、現にあまり巡っていませんでした。

「日本経済はバブル後を脱した」という記事を昨日からあちらこちらで見ます。でも、油断したらすぐ泡立つ状態なんでしょうね。
「履行されない約束」というのがはじけた泡だとすると、「空約束」が泡なんでしょう。

僕も二十歳の頃は、出会うひと出会う人に、「こんどゆっくり酒でものもーぜー」と挨拶がわりのように言い合い、それは全然履行されない約束になっていくのですが、そうやって、「今度酒でも飲み交わす予定」の友達にあふれ、人間関係が膨らんでるような気になる。これがバブルな気がします。

約束が履行された時に、現金が生まれますが、それまでは「約束」に値札をつけてやり取りされています。これが、金融商品で第二のお金。約束の約束です。
「もし、この約束が履行されたら、すごいことになるぞ!」
ということになると値札には高い金額が書き込まれ、「この約束が守られても、大したことないなあ。」ということになると、値段は足踏み。
「この約束は、どうも守られそうにないぞ。」ということになると、値札に書かれた値段は大暴落します。
約束の約束は価値さえも確定しないほんとにふわふわとしたものです。

それをいっぱいもってる人を資産家とよぶのを何かためらうのはしかたないことです。

その約束を元手にさらに約束をしていくと、それぞれの約束につけられた値札の合計はどんどん大きくなっていきます。

その金額を担保にして、現金をかりる。

その結果、「約束の約束」についた値札の合計額で資産家と呼ばれたひとは、現金を手にすることもできます。それによって生じる負債も、「約束の約束」につけられた額と相殺して、その人の資産価値を計算するやりかたもあります。しかし、これは、その「約束の約束」にかかわる、すべての約束が滞りなく履行される、との前提ではじめて現金化される資産です。

でもね、人間って約束まもれないよね。明日、七時には起きて、八時には回覧板を隣に届けます。って約束したとして、それを自分のなかの決心みたいにおもってると、子供がないたり、深夜番組がおもしろかったりして、夜更かし、朝寝坊。こんなことの連続ですよね。

金融商品の代表「株券」なんかも、その会社の自身の中の決心、約束みたいな事業計画とそれの実行可能性みたいなもので価値が変動します。

で、「こんなふうにしようと思ってたんだけど、うまくいかなかったや。」というのは、回覧板とどけるくらいの約束なら、まだどうにかなるんだけど、株券を持つ会社がそういう事をやると、大変なことになる。
たとえば、さっき言ったような資産のほとんどが「約束の約束」で出来てる人とは、一瞬にして一文なしになるかもしれません。

そうしてホントにそれが起きたのがバブル崩壊だったんですね。約束の上に築かれた約束が、どっか一カ所崩れたせいで、全体がはじけとんでしまった。

ほとんどの人は粛々と約束を守ってきて、いまも守り続けているんですが。

パプアニューギニアでは、「約束の約束」に値段をつけようなどとはだれも思わないでしょう。だいたい「約束」自体(お金)たった十年で十倍くらい変動して、ほとんど当てになりません。そんなところでさらに櫓を組んでいくのは危険です。だいたいそんなことしなくても手の届くところにバナナやタロイモはあるのですから。

金融経済、信用経済というのは、とてもよいもので、人間の社会を美しくするための基盤になりえます。それが完全になりたつのは、約束が破れない人だけが住む社会。人間には難しいことです。

それでも、今年の国家予算も成立し、「バブル後の終わり」なんていうコメントが政府高官からでる。それはとりもなおさず、僕らの社会には約束を守る人々が多数である証拠ではないでしょうか。

口の調子がよくて、空約束がぽんぽんでる人。ぼくもそうだったのですが、いままでは、それも愛嬌で潤滑油などといって許されてましたが、それが経済をとめるツボになって行くかもしれません。

つまり、お金もちとは、言った事をすべて履行するひと、もしくは履行できることしか口に出さない人で、貧乏人というのは、言ったことを忘れてしまう人、出来そうにないことを「やる!」といって、失敗するひと。

まあ、今の自分の経済状態を省みるに、今、上に書いたことの正しさが身にしみることでした。
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by toktokpng | 2005-07-16 15:35 | パプアニューギニア
あじさいが咲き出してます。今年は暦通りに梅雨が来そうです。
家の隣にはほったらかされた植え込みがあります。隣の方の敷地内ですから手の出しようはないのですが、ほんとうにほったらかされてます。でも、この時期になると、本当にみすぼらしげな草むらの中に、奇麗な奇麗な濃い赤紫色の小さな薔薇が咲きます。どこからどこまでが何の木だかわからないほどごちゃごちゃの草むらなのですが、その薔薇が咲きそろった頃、今度はあじさいがほころび始めます。
その植え込みの印象は、すこし汚らしいという感じもあるので、切ってしまいたいとおもうご近所もいるようですが、その薔薇やあじさい自体はとても奇麗です。

薔薇の咲く庭の人の手入れについて、感じ入った先週でしたが、ほっておいても植物たちは美しくあります。手をかけて、咲いたときにより奇麗に見えるように演出を施しても、最後のところで、人間が花びらを奇麗に並べて貼付け薔薇を咲かせるわけではない。やはり最後はみまもって、放っておくと、薔薇が勝手に奇麗に咲く。

「時間軸に対しても自由に移動できる精神的存在」という言葉を前回つかいましたが、それはパプア風にいえば「スピリット」「精霊」ってことになるでしょう。身の回りの物全てに宿っている「精霊」です。

僕らにとって、愛で、幸いし、刈り取るところの植物は、精霊たちにとっては、人の人生がそれにあたるというような事を前回は言いたかったのです。

精霊が僕らをおちょくり、楽しませ、びっくりさせたりしながら、愛でてくれるように、僕らは植物を育て、子を愛する事ができると。

でも、やっぱり子も、あるいたり、わらったり、椅子からおちない動き方をが出来るようになるのは、いくら教えてたって、最後のところは足を持って、一歩ずつ空中に浮かせて歩かせるわけにはいかないのです。やっぱりほっとくと、あれも出来るしこれも出来るという事になっていく。

だけどほっとくって一番むつかしいともいえます。ついつい手を入れすぎて花や家庭菜園を駄目にしたり、子どもを無気力にしたり。

「ほっとけばいいんだ」って、そのうちどっかでずれてきちゃって、「ほっとく」じゃなくて「まかせる」になってて、明後日の方向に根を張り、歯も枝も枯れちゃって、子どもは宇宙人になってたり。

この、「ほっとく」と「まかせる」の微妙な違いをはっきりわかって、いつもほっとく事ができるようになると、植物も子どももみるみる本来の姿を育てることができるんだろうなあ。

パプアにいたときも、よい精霊と、しょうもない精霊がいるって話をよく聞きました。
よい精霊が、適当にほっといて見守ってくれたら、人はよい親になり、村の人たちをまもっていく「ビッグマン」になれるんだと。

「ビッグマン」っていう言葉は「首長」とか「村長」とか訳されてますが、15ヶ月住んでみて、「ビックマン」って何だろうって考えたとき、それは「判断できる人」って事だなあとおもいました。「ビックマン」と「よい精霊」はセットだったから、判断はいつもたいてい「ほっとくべぇ」という用な事だったように思います。

で、溢れてくる言葉はいつも「No warry!」 「心配ない!」

まあ、突っ込みをいれたくなるくらい困った状況の中でも「心配ない!」とかいって、こっちが不安になった事も滞在中いろいろあったんですが、たしかに蓋をあけたら「心配な」かった事ばかりだったとも思います。

ということで、いろんな事が世の中で起きてて、自分の周りも仕事も家庭も健康も課題はいろいろありますが、「心配ない!」
人類にはとびきりラッキなースピリットがついてますよね。てきとーにほっといてくれて、僕らはいろんな事を勝手にできるようになっていきましょう!
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by toktokpng | 2005-06-05 13:35 | パプアニューギニア

カーシェアリング

カーシェアリングという仕組みが名古屋と北海道に出来つつあるんですって。
その仕組みの会員になっていれば、その仕組みの車が近くにあればひょいひょいーっと必要な時だけ乗る事が出来るのだそうです。

車の維持にはお金かかります。僕は先月末車を処分したばかりです。どう考えても経済的に維持できないからです。

しかし、子どもが二人になり、また郊外に住んでいるため、便利なお店は国道沿いの大型量販店になります。車があったらなあと思うことしきりです。
でも、いつもいつもというわけではないんですね。必要なときに必要なだけ使いたい。絵を描く時の大きな材料を運ぶ時とか。

パプアニューギニアといえばシェアリングです。シェアリングと言えばパプアニューギニアです。もう思いっきり「お前のものは俺のもの」の世界です。
どうしても車が必要な時は、とりあえず近所のおじさんに声をかけてみます。たいていOKです。そして、目的地に移動をはじめると、荷台に同じ方向に行く人があとからあとから乗ってきます・・。
あれ?こんなにいっぱいいたの? というくらい。
で、みんな行きたいところに近くなると、ボンネットをたたいて合図します。そしてにこやかに、すみやかに降りていきます。

これは仕組みでもなんでもない、人と人との心のやり取りなんですが、エコノミーかつエコロジーですよね。

まあ、せっかく先進国を自認してるんですから、こういう自然なシェアリングをパプアニューギニアから学び取って、うまい仕組みで社会に還元してくれる頭のいい人がいたらいいですね。

とりあえずカーシェアリング関東圏にサービス拡大、おまちしていまーす。
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by toktokpng | 2005-04-11 01:10 | パプアニューギニア

ありがとう

時間のあるときに、思いついた事をかいとかないと、平日は時間がないですからね。
こうやって、最初がハイペースですぐしぼんだりするパターンもブログではよくあると思うのですが、今はそれはおいといて・・。


「ありがとう」の雑感です。
ありがとうの語源ってオブリガードなんでしょうか。
韓国語の「カムサハムニダ」の「カムサ」は「感謝」の事だと確信しますが、ありがとうは「有り難い」〜そうそう無い事だ〜という解釈もあるみたいです。
「感謝します」っていう日本語もありますが、これは韓国語にかなり近い表現ということになります。


じゃあオブリガートの語源はなんなんでしょうね。英語のobligation(義務)とかと同じところに根っこがありそうですね。ラテン語でしょうか。
「責任をとってくれたね。僕はうれしいよ」というような心情から生まれてきたのかもしれないですね。
「感謝」というのは、漢字の絵柄からいくと「頭をさげて言いたい気持ちがする」というような心情が感じとれますね。


どちらにしろ、「義務」とか「謝る」とか、なんか重いですね。
ぼくらが「ありがとう」っていうときは、「うれしい」っていう心情に近い気がします。何かをしてくれて「うれしい」。できれば相手もそれを楽しんでやってくれてたらさらに「うれしい」


語呂合わせで使うようになったかもしれない「オブリガート」の「ありがとう」。
音だけ引っぱってきて、重い意味を中世においてきてしまったから、さっぱりとして気持ちのいい「ありがとう」っていう素敵な日本語が発明されたのかもしれないですね。
で、後付けで「なかなかないことだ」と言ってみたりして。これは「おぉ!レアものじゃん!超ラッキー!」みたいな事でしょうか。やっぱりうれしかったんですね。



余談ですが、こういう言語の生まれ変わりって島国ではよくあるんだとおもいます。パプアニューギニアには700以上の言葉があるんですが、地域によっては植民地時代の宗主国の言葉がいろんな形でのこってます。
ある海辺の村で子どもに「Thank you. ってなんていうの?」ってきいたら「ダンケ」って言ってました。もちろん村の人々は、ドイツ語でありがとうをダンケと言うとはしりません。他の村では、「いいねえ」ということを「ボン」とか「ボイナ」とか言います。フランスにきたみたーいなどと浮かれても、誰も知りません。


ニューギニアのマレウ語という言葉を話す人々といると、ありがとうという言葉に明確にあたる古い言葉はなさそうでした。でも、無言のうちに「ありがとう」の気持ちはそこら中にあふれてるなと感じていました。
「ありがとう」などとわざわざ言うまでもない。「ありがとう」のお風呂につかって生活してるような感じ。歩いててありがとう。声をかけてくれてありがとう。今日もあったかくてありがとう。子どもが橋からおちて、水しぶきが上がって笑わせてくれてありがとう。ありがとう、ありがとう。


ありがとうって音がきれいですね。オッブリガアッドゥよりサラーっとしてます。
特に意味がないとしたら、それもまたいいですねー。


ということで、皆さんも明日から、ありがとうのお風呂を日本にひろげませんか。
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by toktokpng | 2005-04-09 23:39 | パプアニューギニア