「らうん」とは僕がかつて暮らしたパプアの言葉で「旅する・ぶらぶらする」という意味です。光を描く画家、八坂圭が日々を見つめ、愛し、感じた事を福岡からつづっています。


by toktokpng
カレンダー

<   2005年 04月 ( 30 )   > この月の画像一覧

ヘンタイ番長?

ゲーセンにエゴグラムの応用で、質問に答えさせてその人のタイプを面白おかしく言うゲームあるじゃないですか。
ずいぶん前に数人のグループでそれをやって、僕は「ヘンタイ番長」って出たんですね。周りの友人にみせると、ひとりの女の子が、すごく納得の表情でうなずいてました。

いやー、ブログを見返してもフツーの事しか書いてなくて、フツーすぎてつまんないとおもうくらいなのに、そんなこともあったと思い出しました。

正当性のある消極論っていうやつが世の中にはあるじゃないですか。
状況によっては圧倒的な堅固ささえもつそいつが僕はヒジョ~に苦手です。しかもそいつは外からだけでなく内側からもやってきます。

でも、生きてるいじょう消極論というのはありえないんですよね。極に向かって流れてるんだから。

ただ圧倒的な正当性で足踏みさせるそれら妄迷がやってきたとき、怒るんでなくて、はぐらかして、骨抜きにしてしまおうとする態度。そういうとこがあの女の子には「ヘンタイ番長」とうつったのかなあ。

まあ、その「はぐらかし」も効用がイマイチで、ぬるい消極性につかってしまう時間が多いんですけども。
大感謝して、辛抱ですね。
[PR]
by toktokpng | 2005-04-29 20:12
浦沢直樹さんのビッグコミックオリジナル連載のマンガは、年に3冊くらいのペーズで単行本になる。それは「マスターキートン」の頃からずっといっしょ。で、そのユルーイ、ペースで、ずっと単行本を買っている。
まず、裏切られることがない。脳内の各所をつんつんとつついて、耕され、掘り起こされ、あたらしい繋がりがみつかり、わくわくする。
巻末をよむと、浦沢直樹さんの手塚治虫さんの「鉄腕アトム/地上最大のロボット」にそうやって脳を耕され、創造性を刺激されて今の自分がいるという旨の事がかいてあった。
まあ、二人とも作り手としては仰ぎ見る巨人なので、自分にあわせて考えるのもどうかと思うが、何か見るもの聞くもの味わい嗅ぎ、触れる物を作る仕事をしてるひとは、皆、脳を耕す農夫なのだなあと思いました。自分の脳も他人の脳も。

夫々の力量に応じて、毎日少しずつ耕す。

僕も僕なりにね。今日も耕しまっせ。筆と絵の具で。
[PR]
by toktokpng | 2005-04-29 15:44 | カルチャー

本棚の文庫で読むものがなくなってきて、妻の本をとって電車にのることがあります。
それも読みつくして、今日は「茶の湯基本語小辞典」というのを持ち出しました。
抹茶は感覚を高揚させるもので、程度の差ではあっても、芥子のなかまでもあったのでしょう。
官感を制し、自己を統べたしずかな僧の世界には、それだけでも華やぐカフェインの効用。
その禁戒の時間のなかにせめてものはからいと友へのもてなし。そういう世界だなあと。
おもしろいですね。茶の湯。
[PR]
by toktokpng | 2005-04-28 10:07 | カルチャー

アリエルの災難(5)

アリエルはどうしても犬の首輪が気になった。たしかに何かカプセルがついてる。
おじさんのクルマの荷台からまだこっちを見て動かない。
「アリエル、父さんが湖に釣りにいくってー、一緒いこ~。」
となりのベンの声がした。それと同時に親子があらわれ車に乗り込む。
ばたん。

「アリエルものれよ!道具はこないだの積んだままだからさ!」
「あぁ、いくよ。うしろに変な犬がのってんだ、みないかい?」
「え~、しらないよ~、ウォリーの所のバカ犬じゃねぇ?」
ベンはすこし口が悪い。
「ううん、あの犬はもっと小さいよ。この犬は、もすこし大きいんだ、それにバカじゃないらしいよ。なんだか言伝をたまわってるみたいだし・・。」
そんなことをぶつぶついいながら、アリエルは水の入った容器と帽子をつかんでバルコニーからガレージの方へ降りていった。
「ねえ、ベン。荷台にコイツを乗せたままいく?」
「走り出したら勝手に落ちるか降りるかするんじゃねぇ?ほっときゃいいんじゃねぇ?」
「そっかな。そんな気がしないんだけど。
僕、犬と一緒に荷台にのるよ。」
「いいね!それ!父ちゃんいい?おれも一緒に乗って。」
「勝手にしなー。」
[PR]
by toktokpng | 2005-04-27 23:55 | アリエルの災難ー子供向け物語

トワイライト

「夕闇」という光がある時間があります。それは陽光が勢いを失い赤みがかって弱まるとき、青暗く空を覆うように広がろうとする力をもつ、赤紫から紺のあの光景のことです。
その後その反語的な光は幻のように消え、闇のみを正体よとしらばっくれます。
でもその幻光はあったのです。実光とともに二つの光ある時間。それがトワイライト。逢間が時ともいいます。
この世のものではないものに、すこしだけ戸をずらして、こちらとつながる隙間―チャンスをもたらす時間帯。

週末福岡に帰ったのは、この世に新しい命が隙間を抜けて来、それが僕の娘だったという幸運の為でした。

福岡は陽が長い。それは東西に日没時で一時間以上の差がある日本で、一つの標準時を使い、一つの平均就労もしくは就学時間を使っている故の差異です。
たまに帰るとその差異を実感します。一日の束縛を終えた勤め人や学生が、友人とまだ日の落ち切らないトワイライトを共有してる。
その時間に未知の希望や夢、わくわく感を、冗談まじりに喋ってる。それが僕の故郷の風景になっています。
トワイライトには機知の創発性が宿ってる。それが福岡出身者に芸事師が多い秘密かもしれません。
[PR]
by toktokpng | 2005-04-26 23:55 | カルチャー

木の花ガルテン

週末福岡で暖かい時間を過ごしました。この時期平均気温は22度くらい。昨晩、埼玉西部に帰ってきたら10度台の気温が肌寒く感じられました。
福岡はツツジがあちこちで元気よく咲き、藤ももうすぐという感じです。
以前にも書きましたが、福岡はそんなに東京と緯度が変わらず、南国風情というのはありません。しかし、宮崎や大分南部などの瀬戸内に面した所は南国ならではの気候で、その瀬戸内気団の影響で福岡もすこしだけ春の足音がテンポアップするようです。

南国の恩恵は気候だけではありません。大分に大山というところがあって、温暖な気候と豊かな人心に恵まれた土地から多彩な野菜を産み出しているのですが、その恵みを福岡の都市部にとどける「木の花ガルテン」というお店があります。
そのお店のレストランが一年ほど前実家の側にでき、今回いってきました。農家にお邪魔したときにいただけるような手作りのお惣菜が100種近く、それがバッフェで。
農村のハレの日、祭りの日にでもお呼ばれしないと味わえないようなご馳走が食べ放題。聞くと作っているのは大山の農家の主婦だとか。
南の恵みに感謝のありがたさに、思わず拝んでしまうよう。お薦めです。
[PR]
by toktokpng | 2005-04-25 10:35 | 日常

福岡西方沖地震 余震

また、今朝地震があったようです。6時台にずいぶん揺れて、物がおちたり子供が泣き出したりしたそうです。

福岡に家族がいるので、ニュースのたびに気になります。

今回はいまのところ大きな被害はきかないようですが、こんなに頻繁に地震があるなんて、福岡での子供時代に震度1ぐらいでも大騒ぎしていたのに。

地震は、また天災はいつあらわれるのかなど本当にわからない。
でも、人間はその急な時にそれまでどんなに別のことを考えていても、即座に集中し、臨機に対応します。スマトラの時も多くの国境を超えた対応がありました。
そのときに果たせた愛や奉仕は、平安な日常が戻ったときには忘れられていきがちですが、被害だけでなく、その非常時にあらわれた力の事も思いとどめれば、自らの社会が自らに学ぶ機会とする事ができそうです。

この季節のように、揺り動かされながら進んでいくように。

家族の無事に感謝。
[PR]
by toktokpng | 2005-04-20 09:49 | 日常

フリージア

さて、下の記事の花ですが、今回は誰からもメールの反応はありませんでした。むつかしかったかな?

・・・さむっ。

えーっ、フリージアですね。
アヤメ科の花です。スパイシーな匂いですよね。

ネギやニラとも遠い親戚になるんでしょうね。あ、あと菖蒲とかね。

きっとフリージアをお風呂にうかべても、発汗効果があるのでしょうね。ちと、花がかわいそうだが。

でも五月の菖蒲湯の前に、四月の花湯というのもよさそうです。

さくら、フリージア、沈丁花、あと蜜柑のはなとか、タイミングよく見つけてきて、ぬるめのお風呂に浮かべ本を読みながら半身浴など。

春の鋭気を蓄えられそうではないですか?

あ~、しかしその後の始末をおもうと、花たちの様子がいたたまれない感じだなあ。

こういうを野暮というのですね。まあ、野暮ったくてもいいじゃないですか。このサイトもどこかそんな感じだし。

だんだんに葉をつけ、花で飾り盛装していく木々にくらべ、薄着になっていく人間たち。野暮ったいくらいににこにこして戯れたいものなんですよ。春は。

花たちにありがとう。
[PR]
by toktokpng | 2005-04-19 23:33

黄色い花

先週のキンギョソウはだいぶん疲れてきたみたいです。でも、水切りをして、水をかえて、枯れそうな花弁をちぎって、もうすこし楽しませてもらいましょう。すこし寂しくなるので、また駅前の花屋さんで端物をかってきました。

今日は全国的によい天気のようですね。
平日は雨だったり、寒さが抜けきらなかったり、風邪をひいてる人も多かったようです。
それで、今日この天気。

「心配する事はない、ほら、もう後戻りなどしないよ、ちゃんと春だ。」
空がそういうかのように、太陽の匂いを空気中にふりまいています。
それでも、いたずらそうなその空の笑顔のうらには、まだまだ安定しない空の移り気が隠されているようです。

それでも、いい時はいいと、この明るい時間をたのしむのが空との楽しい付き合い方だと思いませんか。

きれいな明るい光の色を移したかのような黄色い花を今日は買ってきました。
今度は名前もわかりそう。昔、学研の付録でこするとこの花の匂いがするシートというのがあったように思います・・。

でも、せっかくなので、この花の名前をみなさんに尋ねます。
コメントやメールでおしえてください。

うん。いいにおいがする。
d0023742_11303892.jpg

[PR]
by toktokpng | 2005-04-17 11:31 | 日常
ブッダのことば スッタニパータ 訳-中村元

この本はパプアニューギニアにいたときに、現地の言語を研究しにきていた若い研究者の方に教えてもらった本でした。言語学の視点からみてもとても面白いという事でした。
日本にかえってきてさっそく買ったのですが、なかなか読み進みませんでした。本の半分以上が注釈で、一つ一つの句にパーリ語の原典ではどうなっているか、サンスクリットの解説本ではどう捉えられてるか等が書かれています。
生真面目に一つずつ注釈をあたっていると、すぐに疲れてしまって前に行かないのです。
それで、しばらく寝かせていたのですが、最近すらすらーっと読み終えてしまいました。

本ってそういう事ありますよね。手に入る時期、読む時期、再度読む時期など。
いろんな偶然のきっかけが重なってすんなり自分に入ってくるとき、本にも出会いというものがあるんだろうなあと直感します。

で、スッタニパータですが、この言葉はスッタが「たて糸」「経」の意味で、ニパータが「集成」の意味だそうです。たて糸が集まったものということなんですね。ハタオリでは、まずたていとがきちんと準備されていないと布は織りあがりません。ハタオリではたて糸を張ってそれから何ヶ月もかけてよこ糸を重ねて、立派な布を織り上げていくのですが、「目覚めた人が言われた、人が生きる事において、たて糸となることの集大成ですよ」という本なのでしょう。さあこれだけのたていとを張りましたよ。ここに毎日一本ずつよこ糸重ねてよい人生を歩んでください。と、そういう本なんだなと思いました。

訳者の中村元さんの本は他にも読んだ事があるのですが、仏の教えを形式からではなく、最初にブッダが話し、立ち振舞った時の臨場感を捉えようという熱意がとても伝わってくる方だとおもいます。

この本もそうでした。スッタニパータは中村元さんの解説によると、ブッダが話したその時代に一番近い原典の一つといえるそうで、シャカ族のゴータマ・ブッダさんがどんな時代背景で、どんな風に捉えられてたのかを想像するには最も適した書だと言う事です。

注釈と解説を通じて、中村さんが訴えていることは、神格化され、神のように上げられてしまう以前のブッダの姿がそこにあり、目の前に生身のすばらしい人として居たんだという事。その時代修行僧は多数おり、みなから認められる人はブッダ(目覚めた人)と呼ばれていたんだという事。

そのようにして人間として捉えていくとき、なにか自分には出来ようも無い難しい戒律を述べてるのではなく、人間なら誰でも出来る簡単な事だよ、出来てる人いっぱいいるんだよ、あんたもできるよ。と言ってるように聞こえてきます。

それから、その時代、インドは農作に豊かであったこと。つまり、太陽の光とたびたび氾濫する河のおかげで、大した労働もせずとも収穫を得られ、飢えるということが無かったという背景。だからこそ、人々は共同作業を発展させず、個人の内面をかえりみる時間を得て、修行者が増える内省的傾向をもっていたという見解。
南半球のあたたかい大地の植物の恵みというのは、パプアでの生活からよくわかります。彼らはいつも「この国にいて、お金がないから『飢える』ってことはない。食べ物はつねに『ある』」と言っていました。たしかにスーパーの肉だとか輸入物の野菜なんかはお金がないと買えませんが、食べ物は『ある』と。
しかし、それで内省的にということはパプアに関しては無いように思いました。共同や共有ということが社会インフラになっていて、そのなかで人生というものは紡がれていくようでした。
そんな違いもありつつ、自分のそのような経験から、食物は自然が与えてくれる生活の中で、人間の努力がより形而上のものに向けられるのは自然な事だと感じられるようになりました。

ですから、ブッダが解かれた事というのも、「そのようなインドで、」という前提を思い起こしながら捉えていくと、より本質的な事がみえたり、自分がいる環境では字義通りにとると、誤謬を生み事になるなということも見えてきました。

なんせ、この日本という場所では、昔から耕し、植え、刈り取る事が重労働で、みんなで協力して、必死でやらなければ「飢え」たのですから。今では分業化して直接土を耕す人の方が少ないですが、働かなければ「飢え」るのは何も変わっていないのですから。

おのずと、違ってきますよね。

ですから、「目覚めた人」というのを、同時代や異時代の、同じ国のひと、ブッダよりは身近な人で、でも立派だなあと思われる人と比べて、それでもブッダには及びもしない、あちらは神なんだからと思うのではなくて、きっとみんなの周りにもいると思うんですよ。目覚めちゃってる人って。けっこう近所のおじさんみたいに。
そういう人の話もちゃんときこうよっていうことかなと。もしくはブッダのことばも近所のすげーおじちゃんが言ってるんだっておもって聞きなよって事かなあと。

最初に言葉を発した時はそういう生き生きとしたものだったかもしれない。だけど二千年以上の間にいくつもの言語を渡り歩き、時代とともに言葉もかわり、何かにがっしりと塗り固められた表面しか普通では見えない。
しかし、言語学的手法を使い、学び、研究すれば、そのさきにある生き生きとしたものに出会える。
言語学の力というのを、たしかに感じ取れる本でした。

二千年たって、もしこのブログがなにかで残ってても、判別不可能で呪文みたいに思われてしまうでしょう。たいがいいい加減なこと書いてあっても、なんかいいこと書いてあるとおもわれたりしかねません。

で、ちゃんと学究の徒がいて、「うん、これは駄文だ。」とちゃんと判別してくれたら、そしたら、この時代に書かれたいいものも、きっと理解してくれる人がいるでしょう。

ああ、言葉を掘り下げて時空を旅させてくれてるんだなあと。

そんなふうに思える一冊でした。
[PR]
by toktokpng | 2005-04-17 02:16 |