「らうん」とは僕がかつて暮らしたパプアの言葉で「旅する・ぶらぶらする」という意味です。光を描く画家、八坂圭が日々を見つめ、愛し、感じた事を福岡からつづっています。


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<   2008年 04月 ( 11 )   > この月の画像一覧

みなさん、いかがおすごしですか。

今日の一節は、とても、デリケートな部分になります。愛について語るのですから。

前段を紹介しておきながら、今日の一節に入ります。

シュタイナーの宇宙観のなかで、「自我」というものはとても大事な存在として扱われていますね。

エゴ(自我)とエゴイズム(利己主義)の違いをしっかりと認識しなくてはなりません。そして、自我の正常な進化のために、エゴイズムが克服されなければならない事、現在、唯物論的な考え方が魂にまで浸透したことで、エゴイズムが生まれ、そのプロセスは必要であった事と、それを超えていくために、同族の愛を克服していかなければならない事が述べられます。


「それでは、唯物論と同族の結びつきを克服することを通しての霊性と普遍的人類愛の獲得は、どのような手段と方途によってなされうるか考えてみましょう。正しい普遍的人類愛を強調する必要があり、人間愛を目的にした結びつきを作らねばならない、という意見が生まれるかもしれません。神秘学は決してこのような意見を抱くことがありません。反対です。普遍的兄弟愛や人間性について語れば語るほど、自分の言説に酔ってエゴイストになってしまうのです。感覚的な歓楽があるように、魂的な歓楽が存在します。『私は道徳的、倫理的にますます向上したい』というのは狡猾な淫蕩のもたらす歓楽なのです。このような言説は通常のエゴイズムではありません。このような歓楽から生じるのは、老獪なエゴイズムです。

— 中略 —

人間は真理に向かって精力的に働かねばなりません。そうして初めて、調和的な共同の生活が可能になるのです。」


この事は何を語っているのでしょうか。「普遍的人類愛の獲得は、どのように」と書かれている事に注目します。

人は、博愛を語るとき、老獪なエゴイズムと隣り合わせでいる事、政治的アジテーションと同等の危険性をそれがはらむ事を認めなければなりません。

エゴイズムの克服は、われわれに新しい文化期をもたらします。昨今、「アセンション」という言葉が語られますが、そのようなかけ声があろうとなかろうと、われわれはエゴイズムの克服をあらゆる面から突きつけられているのが現在です。

そして、新しい文化期はやってくるのです。その世界において、「一人勝ち」も「敵への恐怖」「二項対立」も問題になりません。それらは克服されます。
克服されてなお、われわれは仕事に精をだすのです。さらなる調和と宇宙への自己の還元のため、よりいっそう仕事に精をだし、豊かな社会をこの地上で作っていかなければなりません。エゴイズムの克服を遠い未来の目標のように掲げている場合ではないのです。それは、直近の目標であり、われわれの仕事はその先にこそ待っています。

そこで、ただ、人は敵も争いも貧しさも過去も、土も木も鳥も蝶も犬もネコも、歴史もお金も、煩悩も、なにもかもすべて愛だとうことを、ただ静かに笑って感じることでしょう。

あなた自身が愛なのだということと同時に、すべて目に映る外的な物までが神の愛の表現だという事。

日常のどんな煩わしいこと、いらだたせる毎日のニュース、自分の中に恐怖や怒りを呼び起こすエゴイスティックな犯行を目にしたときにも、この事実を自分意に突きつけましょう、と語ったとします。つまり、ただ、愛であるものに、なにかを付け加えようとするなと。手放し、リセットし、より高い調和から、目をそらさないでくださいと。

そのとき、そこに老獪なエゴイズムは働かないのです。真実において語る事だけが、昂らず、静かな道を指し示します。

際限なく広がり、どこまでも高い道を、指し示すのが、シュタイナーの述べる霊学の役割だといいます。

今回の日記で、その宇宙観の一端をご紹介していますが、彼の展開する宇宙観を切っ掛けに、自分のなかで響く真実を感じ取られた方は、彼の著作にあたられる事も、一つの学びになると思われます。

また、そうではなくても、日々の生活に、彼の展開する宇宙観が多角的な視点を与え、そこから何かを学んでいけるのならば、それが何よりだと思います。

残り2回は、その実際の修行について紹介し、このシリーズを終わらせていただきます。

根気をもって、付き合ってくださる皆様に、心より感謝させてください。


あなたにとびっきりの愛を。わっはっはっは。


どうも、ありがとうございました!








 
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by toktokpng | 2008-04-30 17:36 | 創作
みなさん、こんにちは。

今日は休日で、子供たちも家にいます。

ちょっと、父に子供たちを見てもらって、本日の一節を更新します。

さて、昨日は早足に宇宙進化の7つのフェーズと、人間の7つの意識状態について紹介しました。

その内容は、知識としてではなく、内的体験を呼び覚ます情報として生かされればと思います。

その前の日記では、それぞれの相のフラクタル構造についても紹介しましたね。

現在の地球紀の中にも、七つの時期について言及されています。

地球の七つの時期を紹介しますね。

土星紀に対応する地球での時代をポラール時代、太陽紀に相当する時期がヒュペルボレアス時代、月紀に対応する時代をレムリア時代と呼び、地球紀に対応するのがアトランティス時代、木星紀に対応しているのが後アトランティス時代、その後、金星紀が第六根幹人類紀、そして、ヴルカン星紀が第七根幹人類紀と呼ばれています。

現在、われわれは、後アトランティス時代を生きており、その、後アトランティス時代にも7つの時期があります。

その七つとは、インド文化期・ペルシア文化期・エジプト/カルデア文化期・ギリシア/ローマ文化期・第五後アトランティス文化期・ロシア文化期・アメリカ文化期という名称で呼ばれます。

現在、アメリカ文化期をすぎようとして、まさに第六根幹人類期へと移行していくのが「今」ですね。

さて、前段も長くなりましたが、今日の一節です。ですが・・例外的に二節、紹介します。



「月紀のある時期に、生殖衝動の進展と内的な体験が生じ、この内的な体験を声に発することができました。そのほかは、動物人間は沈黙していました。太陽に対する月のある特定の位置、ある特定の季節において、月は宇宙の中で音を発したのです。月の存在が自らの衝動を宇宙へ叫びだしたのです。ある種の動物、たとえば、鹿の叫び声の中に、この痕跡が見られます。」

「漂い、泳ぐように動いていた月紀の人間は、血液の流れを送りこむ周囲の大気圏にぶら下がっていました。地上で身体が死んでも、それは魂の死ではありませんでした。自分の一部分の死であり、意識は上方へ生きていました。たとえば、手が朽ちると、別の場所に新しい手ができてくるような状態でした。月紀の人間は朦朧とした意識の中で、死を単に身体の枯死としか感じませんでした。」



この時期の人間の姿という物を、シュタイナーの観点に基づいて観察すると、なんとも想像力をかき立てられます。現在の植物のような形態が形態としてありつつ、人間の本質は、大気にぶら下がっていると。とても、ほんわかした感じがします。

そして、その時点においては、人間は両性具有であるといわれます。月紀において、地球は、現在の「月」と「太陽」になる部分を「放出」したと述べられます。それ以降、人間は両性をもつ可能性を生じさせたのです。

その、両性具有の人間存在が、声を発する瞬間が描写されているわけです。それはまさに「ウタ」のはじまりですね。

この時点において、性は、まったく神聖なもので、どのような他の要素も入ってくることはありませんでした。声と生殖はまったく一つのことであり、天球にこだましたその響きを想うとき、われわれの心に、ウタの原初がよみがえるようです。

そのような月紀の人間にとっては、現在の死と生のような区別はなく、連綿と繰り返される変化のプロセスを、夢のような意識でたどっていたと言われるわけです。

そして、この月紀に対応する現在の地球紀での時期が、レムリア期になります。このとき、月紀の繰り返しということが地上でおこり、このとき性の衝動が、不完全な自我意識と結びつき、ちょっと扱いにくい状態を作り出しました。

その、レムリアの時期に、扱いにくい状態から自らを引き上げ、次の段階に進んでいった魂が現在の我々です、と述べられています。

後アトランティス時代にも、浄化と再構築が行われてきたわけですが、月紀に対応するペルシア時代の「千夜一夜物語」などは、うっすらと、月紀の記憶を反映させているように感じますね。

我々は、今という視点に焦点を合わせるとき、合わせるからこそ、その前後に広がる広大な空間と時間に想像の翼で自由に飛び立つことができ、そこから得られる光の情報を芸術や日々のひらめきの中に生かすことができます。

このようなシュタイナーの考察は、「scaffolding -建築の足場—」として、とても有用に感じます。

われわれのなかに、すべての時代、すべての宇宙の経験が織り込まれている。

そのことを感じるとき、なにか素晴らしいものを、外に求めようよとするのではなく、自分自身のなかに見出せそうだという、やる気がわいてきやしませんか?

そうであればいいな。それすらも、カムナガラに。

ただ、すべては良いながれの中にあると信頼して、今日は終わりにします。

あと、三回、よかったら、お付き合いください。


今日も本当にありがとうございました。


感謝








 
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by toktokpng | 2008-04-29 13:10 | 創作
さあ、みなさん、こんにちは!

今日も、読んでくださいますか?

本当にありがとうございます。

シュタイナーが伝えたいこの情報は、当時、ゲーテアヌム霊学自由大学の学習者(社会人を含んでいたと思われます)に対して公開されました。

その当時は、ある一定の修学の準備ができた人への公開ということでした。このような内容を受け取る、前提を把握した上で、理解にあたってほしいと。

僕は、おそらく、この日記を読んで開いたという時点で、その人にはその準備ができていると思いますので、こうやって公開しています。

これらの情報は、情報です。

何より大切なのは、PCの前で情報を受け取る事ではなく、歩き、人や植物を愛でて、どんな小さな日常の喜びも、あますことなく受け取って、感謝する事ですね。

さて、今日の一節です。

「七番目の意識状態は霊的意識、最も高次の意識です。この意識状態において、人間は全体意識を持ち、惑星上で生起していることのみならず、全宇宙の経過を見ます。人間が土星紀に有していた意識はまったく朦朧としたものでしたが、それでも、一種の全体意識でした。他の六つの意識状態に加えて、この霊的な最も高次の全体意識は、ヴルカン星紀に獲得されます。」



「ワンネス」という事が、いわれますね。第七の意識とは、そうでありますね。

愛するものに目を奪われて、花でも、風景でも、恋人でも、家族でも、マナティでも、自分の中から無限のような愛を感じるとき、時として、われわれもワンネスを感じるのではないでしょうか。

では、土星紀の状態から見ていきましょう。

この一節のなかで述べられるように、第一の土星紀には、ワンネスが当然のようにあったと言われます。

当時の人間は鉱物状態にあったとされ、昏い朦朧とした意識がありました。いまでも、もし、鉱物たちと話ができるなら、宇宙全体を見通す、ワンネスの意識をかいま見る事ができるでしょう。ただ、この鉱物状態の人間と、現在の鉱物は同じ物ではありません。日記の一番目に、人間存在の一部分が鉱物としての肉体であるという観点を紹介しましたが、その肉体の発展を始める芽がここにあったと述べられます。

そして、土星紀は眠りの状態へと移り、太陽紀へ。

ここで述べられる、惑星の名前は、現在の天文学での惑星の事を正確に指し示してはいません。

現在、そのような名前で呼ばれている天体は、それぞれの宇宙進化のなかでの、次元の超えた本質の投影であると考えられます。

さて、太陽紀。

太陽紀の意識は現在の人間の夢を見ていない眠りの状態に近いと言われます。太陽紀には人間は現在の植物の状態に近い意識を持っていたと言われます。太陽紀は、腺・成長器官・生殖器官などを形作ることが重要なプロセスでした。多くの高次の存在の助力をえて、形作られていたその器官は、太陽紀にあって、今日の地球上にある、山や岩石のようなあり方をしていたといいます。

想像しましょう、そのランドスケープを。すばらしい生命力を担うべき存在が、数学的な美しさをもって、山並みとして目に映じます。それは壮大な交響曲のようで、すべてが光をはなち、完全な仕組みが響きあいのなかで形作られていくのです。生きる悦びは、この時期にしっかりと、約束されていたのです。

そして、月紀。

月紀の意識は夢と比較する事ができると言います。月紀の人間は象徴的な意識をもっていました。
嫌な存在が近づいてきたとします。そうすると月紀の人間の意識には、醜悪なイメージが表れます。そのイメージが意識にあがる表象のすべてであり、存在の表面に固有の形態や色彩という物を見出す事はありません。
そして、好ましいものが側にあったとします。月紀の人間は、美しいイメージ・香り・色などを意識にのぼらせて、その存在へ近づいていく事になります。

次が、地球紀。

これは、現在の私たちの意識ですね。土星紀から壮大な進化を遂げてきた肉体や内的器官、そして、五感を駆使して、表象を捉えていく事が出来る意識。「表面」という事にいちばんコミットしているフェーズですね。
それは、その必要があるからそうなのであって、そのステージの学びは貴重です。で、あると同時に、そこにとどまってしまっては、つまらないものでもあります。

さあ、来るべき木星紀です。

ここには、月紀の意識に、地球紀で得た形態的・表面的感覚が付け加えられます。そうすることで、どうなるのでしょうか。はっきりと目覚めた形態的意識をもちながら、同時に、その存在が持つ魂の特性をオーラの中に見る事になります。

地球紀につづく三つの意識状態は、これまでの地球上では、修行をかさねたり、秘儀参入者になることで、得る事ができました。現在では、日常を感謝を持ってすごし、毎日の出来事の中から、学びを見出していくことで、多くの人がこれらの意識状態を体験する事ができるようになってきています。そのような能力を得る事は、なにもその人が特別な人だからなのではなく、学びのステージと、「今、ここ」という日常を生きる為のひとつの前提にしかすぎませんね。ただただ、そのような毎日を生きられる事に感謝です。

その次が、第六の意識、金星紀です。

昨日の一節で触れましたね。
音と松果体がキーワードになりますね。太陽紀で想像したランドスケープを思い出しましょう。金星紀には地球紀と木星紀に得た形態意識・心的意識を保ちながら、存在の本質を空間の響きとして捉える意識が生まれるといいます。ですから、この意識において、人間は人間を一個の響きとして感じます。トム・ケニオン著「ハトホルの書」でも、ハトホルさんたちが、同じような事をいってましたね。

そして、そして、第七の意識状態。

宇宙を発生させ、ずっとすべての存在の根源である力との一体感、ワンネスですね。

たまに、思ったりしませんか?
じっと、ツクシを見つめていると、「君は僕だね」って思ったり。。
雲をみてると「君と僕は、なにひとつ変わらないね」って感じたり。。


さて、この7つのプロセスは、旧約聖書の7日間の創造ということにも同じ霊感を与えていますね。

そして、昨日書いた、それぞれのチャクラとの対応についても、皆さんチャクラについては詳しいと思いますので、それぞれの対応を味わってみると良いと思います。

愛と光であるために、意識を、第六・第七のチャクラにいつもリセットしていく事。これは、現代において、とても有意義な考えだと思います。


「地球のおのおのの受肉状態が、そのような意識状態を可能にする条件を提供します。月紀に植え付けられた神経組織は今日の脳にまで進化し、そのことによって、目覚めた昼の意識が可能になっています。このような器官は、高次の意識が物質の次元で十全に生きることによって創造されます。この高次の意識状態を、秘儀参入者は霊的に体験しています。」

シュタイナーのこの言葉を結びにしたいと思います。この言葉から、そのときそのときの生きる条件は、その時期の人間にもっとも必要なように整えられているとイメージする事ができます。

さあ、今日、どんな良い事がありましたか?

それは、あなたに何をもたらしてくれたでしょうか。

すべてのちいさな出来事に、感謝を送りましょう。


長い長い文章、お付き合いいただいた方、本当にありがとうございました!

では、また、明日。














 
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by toktokpng | 2008-04-28 18:30 | 創作

みなさん、こんにちは。

今日の一節です。



「個々の人間はすべて固有の音を持っており、それぞれの音が共鳴しています。これが金星紀における人間の意識です。金星紀において体験する天球の諧調をゲーテは『ファウスト』第一部の「天上の序曲」で、

太陽は太古の節で

仲間の天球と歌を競っている。

そして定められた旅路を

轟くように進んでいく。

と記しています。太陽紀に、昏い意識の中で人間はこの音と響きを聞いていました。金星紀に再び「太古の節」のこの音と響きを聞く事になります。その様子をゲーテは表象し、このような詩句として表現したのです。」



土星紀・太陽紀・月紀・地球紀・木星紀・金星紀・ヴルカン星紀という七つの「地球の状態」について昨日紹介しました。それは、地球の過去世と未来世の姿です。

そしてこの七つは、曜日に対応しているとシュタイナーは書きました。

そして、僕はこの七つはチャクラに対応していると書きます。

チャクラとはサンスクリット語で車輪を意味します。シュタイナーはチャクラの事を車輪というよりは、花弁の数の違う花に喩えていました。

僕も、花ってイメージしたほうが楽しいです。

人間の体の中に、プラーナと呼ばれる、エネルギーが流れる管があります。それは、実験によって、存在を確かめていく事はできるみたいですが、物質的組織として解剖学的に見える物ではありません。

そのプラーナのエネルギーがただ、流れていくのではなく、幾つかのセンターを持って、集合・拡散し、人間存在に活力を与えています。

その、エネルギーセンターが主に七つあって、それぞれの特質があります。

第一から第七まで、簡単に一般的に担われているといわれる役割を書きますと、

第一>肉体の活力
第二>生殖力
第三>伝達能力・消化吸収
第四>共感力
第五>表現力
第六>直感力
第七>霊的認識力

チャクラについては、皆さんそれぞれのワークの中で、多くを学ばれている事でしょうから、ご自身の学びを参考されてください。

また、ファウストの「太古の節」という事も、古代の響きと古代文明について多くを学ばれた方は多いでしょうから、そのこともイメージしてみてください。

土星紀が第一チャクラに対応します。ヴルカン星紀が第七チャクラに対応します。

ですから、今日の一節の中は、第二チャクラと第六チャクラの対応について述べられているわけです。

さて、今日はここまでです。

明日は、それぞれのフェーズにおける、人間意識の概観について紹介します。


辛抱強く付き合ってくださる方、本当にありがとうございます。

全13回の予定です。

あと、5日。

なにがしかのインスピレーションの切っ掛けを見出してくだされば幸いです。


愛とともに、連載をつづけます。


感謝。







 
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by toktokpng | 2008-04-27 11:02
みなさん、ごきげんよう。

良い事がたくさんの週末、みなさんはどんな良い事の中にいますか?

いろんな事象が僕たちの毎日には立ち起こってきますが、すべては意識が必要としているメッセージですね。ただ、淡々と受け入れて、意識をどうしても働かせたい時は良い事と愛に焦点をあわせて行きましょう。

そうすることで、立ち起こってくるいろいろな事象にとらわれる事なく、地に足のついた現実的な対応も冷静にできてくるように思いますね。

ちょっと、今日は長いです。

ごめんなさい。

ゆるしてください。

愛しています。

ありがとう。

さて、今日の一節の前にすこし、前置きを。

「実在のスーパーマン」さんという方がいます。
http://plaza.rakuten.co.jp/superman81

彼はとても健康で意識のたかい人生観をもっていて、独特のユーモアを交えその意識をブログで発信しています。

彼の捉えた世界観の中に、「前世、来世、宇宙人、霊というものは存在しない、また、過去・未来というものも存在しない、すべて、今という事の中に織り込まれている」という事があります。

僕は、この事を素晴らしいなあと思いました。

これは、真理だと感じます。

そのように感じることを置き去りにせず、これから紹介する内容を感じていきたいとおもいます。

「薔薇十字会の神智学」の内容を、愛をもって紹介していくと、どうしても向き合わなければならない内容があります。

今日から、シュタイナー独特の宇宙進化という概念について紹介していく段階になります。

存在のカルマと輪廻転生、宇宙進化のプロセスと人間の意識へのシュタイナーの深い洞察ということが、スーパーマンさんのおっしゃる真実と、矛盾を生じないパースペクティブをみなさんが構築できれば、これは、本当に存在の実相ということを眼前にありありと感じるためのまたとないチャンスになると思います。

そのことが、現在、おおきな変化の時期を迎える地球上で様々な現実の事象、また、多くの見えざる世界についての情報が錯綜する中で、ひとつの定点観測所を建築する事になると信頼します。


では、今日の一節。


「人間のなすことは何事もいたずらに過ぎ去らず、すべてその作用は未来に及ぶという力強い考えを知る必要があります。カルマは私たちを圧迫するのではなく、未来への希望を与えるものです。カルマ論は霊学の最も美しい贈りものなのです。

—中略—

カルマは人間を悲しませたり、世界に厭世的な色合いを与えたりするものではありません。カルマの法則は私たちの行為を活気づけ、地球の発展に関与させます、このような感情が、カルマの法則についての知識にとってかわらねばなりません。」



シュタイナーの宇宙進化という世界理解のなかにあって、彼は「土星期・太陽期・月期・地球期(火星期—水星期を包含する)・木星期・金星期・ヴルカン星期」というフェーズを捉えます。これは、日・月・火・水・木・金・土という七曜日に対応していますので、イメージしやすいですね。

地球存在自体が、人間とおなじように輪廻転生すると捉えられています。そして、地球の以前の状態として、現在の地球期に先行して、土星期・太陽期・月期という時期を通過してきたと捉えているのです。

この、土星期の前にも、さらにヴルカン星期のさきにもまた、違った惑星期が存在するのですが、地球にいるわれわれの意識はその前後は見えないと述べられます。

これが、シュタイナーの宇宙進化の基本概念になります。

シュタイナーの時代には「フラクタル」という概念ははっきりとありませんでしたが、それぞれのフェーズ(期)はそれぞれの中に、前後のフェーズの体験内容に対応する事象を包含していると彼はいいます。これは、まさに宇宙存在は時間においても、空間においても、フラクタル構造をもっていると言い換える事ができます。

今日一日という事を一つのフェーズとしてとらえるならば、そこには土星期からヴルカン星期にいたるまでのすべてを、また、地球期のすべての事象を、一人の人生のすべての事象を織り込んで、相似形として存在していると言えます。

「今、この時」というフェーズで区切るならば、やはりそこにすべてが織り込まれています。

そのような、プロセスの中で、われわれは地球期というものを生きています。

それは宇宙創造の中でそのような必要があるために、そうあります。

そして、そのプロセスを素晴らしく創造的にしているのがカルマの法則であります。

すべて、私たちは今を生きながら、生きているだけで、さまざまな原因を生み出しており、それが、結果を作り出します。

「かならず、原因は、それを作り出したものに結果をもたらす。」これがカルマの法則です。

その原因は、永遠にも思えるほどの広がりを持って、美しいレース模様のように宇宙を織りなし、我々が知覚するすべての物を結果として生み出しています。

ですから、あなたが「今」知覚しているものは、すべてあなたへの結果なのです。それはただ、受け入れる事だけができ、なにかの対応する必要のあるものではないのです。

ただ、我々にできるのは、今から、霊界に萼のような形態を生み出すように愛をもって受容し、今を生きるならば、光とともに、あらたな原因となることだけなのです。

そのような織りなされたタペストリーとして宇宙存在があり、われわれはその無限に壮大で美しい一幅のなかの一部分であります。


人は、時において、この一幅のタペストリーから分離したような感覚をもつことがあります。しかし、つねにカルマの法則によって、われわれはその一部に織り込まれ、真の意味での自由と、無限の学びと喜びと希望がよりそっているのです。

どのような特殊な体験を得なくても、今、ここで、その事へ自分をリセットする事ができます。

どのような時も、「チャンスは、今。」なのです。

今日は、平面的な意識においては矛盾するかのような概念を、意識的に隣り合わせにして紹介させていただきました。

平面というパースペクティブを拭い、立体的な意識を得たとき、そこに矛盾がなくなります。

さて、明日から、それぞれの宇宙期に対応する意識のあり方について紹介させていただきます。


今日の日記は、ちょっと、軽さに欠けていると思います。

しかし、必要な情報が、必要な人に届く事を信頼して、また、受け取ってくださった方へ感謝と愛をおくります。


本当にありがとうございました。


では、また。




















 
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by toktokpng | 2008-04-26 13:04 | 創作
みなさんこんばんは。

今日は遅い時間の更新です。

子供たちが寝てから、ゆっくりとした時間を持つ事。今日一日の子供たちの笑顔が浮かびます。息子は水疱瘡にかかっていましたが、随分良くなって、今日は庭の芝生に水を撒きながら、びしょびしょになって、よろこんでいました。

さて、今日の一節です。


「霊視的に見れば、光の中に死者たちを見出すことができます。死者たちは光で織られた体を持っています。地球の周囲に注ぎかかる光が、神界に住む者たちの素材なのです。太陽の光を受けて成長する植物は、単に物質的な光を浴びているだけではなく。霊的存在、そして死者たちが光の中で植物に働きかけているのです。」


このことが語られている章では、人間の本質が、肉体の死を迎えた後、どのような状態にあるかを、シュタイナーの霊眼に映じたまま、また、薔薇十字会に受け継がれた叡智の情報のまま記されています。

この日記では、あまり、そのあたりの詳細について述べたくないのですが、プロセスをはしょって、いいますと、人間の本質が、死後、いくつかの段階を通って、しかし、神界に存在するようになります。

「千の風になって」、大ブレイクしましたね。僕も、改めてあの歌詞が歌として聞こえてきたとき、先立たれた、恩ある方への思いと、その方々がいつも側で見守っていてくださる実感とがあふれ、うれしさと、なにかこみ上げる思いで、涙が出たのを覚えています。

そのように、死者たちは、神界にいて、光のなかに見出され、また風の中に生きていると言われるのです。

このことを、イメージしてみましょう。

芝を貼って、次の日は雨がしっかり降りました。そして翌日には煌煌と晴れて光が降り注ぎました。子供たちが水をまくと、水滴は光を反射し、キラキラと喜びを表現します。

この光を植物たちはまとい、その命を全うさせます。

庭の向かいには、雑木林があり、そこにはすこし古びた楠がいます。楠も光を受け、しかし、少し鬱蒼とした木陰をまわりの低木たちに投げかけています。

ここに、神界からの死者たちの働きがあるのです。

あまねく光の存在たちが、アストラルを持たないエーテルと物質から成り立った植物を祝福し続けるのです。その祝福をうける資格が植物たちにはあり、その点において諸靴は我々よりも完成しています。

その完全性は愛を表して、われわれは植物から、花から、光と愛を受け取る事ができるのです。

その愛と光は、私たちと本質ではつながっている、かつて生きた者たち、これから生きる者たちの愛と光なのです。

われわれは、日々、根源の一つであるエネルギーの分霊として、この地上の生活を営み、学び、感動を重ねて、創造のプロセスのなかにいます。

どのプロセスの一点も、やり直しがきかず、一回きりの、唯一無二の今です。

そして「あなた、わたし」という存在も、二度とは表れない一回性の真実です。

で、あるにも関わらず、この「私」という本質がどれほど普遍で永遠のものなのか、どれほど無限の愛の一部であるのかを、初夏にむかう晴れの日の光にきらめく植物たちは教えてくれるのです。

光の本質ということを見ていく時の、これは、一側面でしかありません。


この地上でかつて学んだ先人たちが、より、高次の学びをへて、多くの愛の情報を携えて地上に降り注いでいる。

一側面でしかないとしても、そのようなイメージをわれわれが持つとき、外界に向けられる目は、より豊かさを増していくように思います。

さあ、今夜も遅くなりました。

いつも、お付き合いいただいてありがとうございます。

あなたに、祝福の光がありますよう。

それでは、また。





 
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by toktokpng | 2008-04-26 02:57 | 創作
親愛なるみなさん、こんにちは。

今日は、スターバックスのお店から更新です。
ここ、天神西通り近辺にはいったい何軒あるんだ?ってくらいスターバックスがあってびっくりしています。

多様性を、もちましょうよ。わはははは。

さて、今日の一節です。一節ですが、この前後、とても重要な事が書かれているので、引用して最後に附しておきますね。興味とお時間のある方はお読みください。

「- 前略 - どこかで何らかの出来事が生じると、この出来事から高次の世界に一つの作用が及びます。

誰かがこの出来事をありのままに語りますと、その出来事自体から発する形象に一致するアストラル的な形象が語り手から輝き出、この二つの形象は互いに強めあいます。

強められた形象は霊界をより有機的に、内実豊かなものにします。」

たとえば、「昨夕、娘がナスタチウムや幾つかの花を庭から積んできて、母はそれをガラスの花瓶に生け、息子が片付けられたテーブルの真ん中にそれを置いた。今朝、花は朝の光をうけ、まだ、美しく咲いていた。」ということを語ります。

この事実を語ることが、昨夕から今朝にかけての日常の微笑ましい断片という事実が生み出した霊的な実相を、さらに強める働きをしている。そういうことなのです。

このことを、僕は、いつも味わっています。

絵を描きます。線をひきます。感じのいい線が描けたとします。そのとき、「ああ、感じのいい線が描けた。」ということを、改まって認識するのです。そのとき、いい音楽がなっていたら、「ああ、音楽が僕の耳に心地よい。」という事も一緒に認識します。

そのようにして、僕は、その時空でしか造り出す事の出来ない霊的な時空をアストラルの世界に創造していくのです。

その創造が、生まれてくる絵をさらに豊かにしてくれます。

事実を語ること。ありのままに。

事実を語られたときに、「だからなんだ。」と、言ってしまう心は、建設者の心とは言えないのです。

「あなたの声は美しい」「君の目は輝いている」「この店にはコーヒーの香りが満ちている」

事実を語ったものが、「何を当たり前の事を。」と、冷たくあしらわれても、彼は真実、偉大な創造を為しているのです。

では、詩人はなにを創造しているのでしょうか。

いま、ここにない物を詩人は見ます。

スターバックスのソファに座りながら、詩人は青空を吹き抜ける風を感じる事が出来ます。

・・・・・

もうすぐ

さつきがやってくる

どのそらよりも透き通った

さつきのそらを

僕は

吹き抜ける風として感じる

白い花たちを

子牛の背中を

撫でて

こずえで軽妙なダンス

太陽に手をふる

若葉たち

それにこたえる

まばゆいきらめき

さあ僕は旅をつづけよう

谷をこえて

君たちの住む

川のほとりの町まで

・・・・・


このようなイメージを得る事は、アストラルに何を生み出しているのでしょうか。

愛と光りに満ちたイメージは、アストラルに花を咲かせます。そして、この詩の内容を追認する人がいた場合、そのことが、アストラルの花をさらに輝かせることになるのです。

この事が、ファンタージェンの創造的行為として、また別の箇所で語られます。

この事が芸術と芸術における人類進化への奉仕について、とても温かい示唆をあたえてくれます。

芸術を鑑賞する事の創造性ということ。この事を知ったとき、人生は格段と豊かさと喜びにあふれますね。

この日記を読んでおられるみなさんは、もうすでに、このような思考の回り道をせずとも、すでに、その創造的行為の意味に気付かれているとはおもいます。

あらためて、追認です。

いやあ、生きている事は、どんな時も素晴らしい。

なにがおこっても素晴らしい。

どんな時も素晴らしい。

素晴らしい。

ただ、あなたに感謝です。

今日も、長文付き合ってくださった方、


ありがとうございました。



最後に、抜粋を附しますね。


________________________



 誰かに石を投げつけると、石を投げつけられた人は痛みを感じるが、誰かに対して抱く憎しみに満ちた考えは相手に痛みを感じさせない、と唯物論者は信じています。けれども、真に世界を認識している人は、憎しみに満ちた思考が石を投げることよりずっと強大な作用を生み出すことを知っています。人間が考え、感じることはすべてアストラル界に作用を及ぼします、どのように愛に満ちた思考が作用し、また、どのように憎しみに満ちた思考がまったく異なった作用を生み出すかを正確に霊視することができます。愛に満ちた思考を放つと、その思考は萼(がく)のような形の光になってエーテル体とアストラル体の上に愛情のこもった仕方で漂い、活気と祝福を与えます、憎しみのこもった思考は矢のようにエーテル体とアストラル体に突き刺さり、傷つけます。

 このことに関してはさまざまな観察ができます。真実を語るか、嘘をつくかでアストラル界に生じる現象には大きな差異があります。思考は何らかの事象に関連し、その事象と一致することによって真実のものとなります。どこかで何らかの出来事が生じると、この出来事から高次の世界に一つの作用が及びます。誰かがこの出来事をありのままに語りますと、その出来事自体から発する形象に一致するアストラル的な形象が語り手から輝き出、この二つの形象は互いに強めあいます。強められた形象は霊界をより有機的に、内実豊かなものにします。このことが人類の進化にとっては必要なのです。出来事に一致しない虚偽を語りますと、語り手から発した思考の形象は事実から発した形象と反発しあい、相互的な破壊作用が生じます。虚言から生じるこの爆発のような破壊作用は、あたかも潰瘍のごとく、有機体を破壊してしまいます。虚言はすでに発生したアストラル的な形象、これから発生すべき形象を殺し、人類の進化を阻止するのです。実際、真実を語るものは人類の進化に奉仕し、虚偽を語る者は進化を妨げています。

    (「薔薇十字会の神智学」R.シュタイナー 平河出版社 P80-P81より抜粋)
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by toktokpng | 2008-04-24 17:04 | 創作
みなさん、こんにちは。

今日は雨が降っていて、昨日芝を貼ったので、なんと良いタイミングだろう!とよろこんでいます。

さあ、今日の一節です。

「魂的親和力から形成された友情、仲間意識は神界においても継続します。

—中略—

地上で魂的な関係を結ぶことによって、神界のある形態に働きかけることになります。人から人へと愛の絆を架けることによって、神界の形態に働きかけるのです。」

これは、本当にシンプルな事ですね。

今日は、「愛と感謝のプロジェクト」の日でもあるのですが、まさに今、僕たちは低次のエゴによる、利己的な愛ではなく、あまねくすべてを赦し、愛する働きを、身の回りのすべてのものと築きあげる時にきていますね。


快・不快を超えて、お互いに感謝を捧げあう事、その事が、神界における建築につながる。

シュタイナーのいうこの事を、やはり僕は見る事は出来ませんし、確かめるほどに悟性を働かせ、考え抜いた事はありません。

しかし、そのようであるのを、なぜか遠い記憶のように追認する心があります。

では、そのようであったとしましょう。

今日、だれかと、言い争ったとします。

その時点で、すでに愛のチャンスが訪れています。

この関係を赦し、いたわる事が出来る当事者は、言い争ったあなただけなのですから。

そこに、唯一無二の、あなたの神界での建設のチャンスが訪れているわけです。


ずっと、会う事のできない友人がいたとします。

その二人が、言葉をかわさなくても信頼しあっている事を感じているとしたら、どれほど輝かしい建設をなしている事でしょうか。

それは、想像もつかないほど巨大な建築の基礎を造り出しているように感じられます。

まさに、今、この人生において、僕は多くの友人と愛すべき人に囲まれて、時に励まされ、時にぶつかりあいながら、多くの出会いと感動を積み重ねているように感じます。

これこそ、僕らの本質が神界において築いてきた建築の、現実への投射であり、また、神界へと投げ返している連続の愛なのです。

どんなささいなことも、恋人同士の喧嘩も、愛のささやきも、それっきりの刹那ではないのです。

しっかりと、神界に刻まれ、光として存在し続ける。

僕は、今日の一節からそのようなビジョンを得る事が出来ます。

その事自体に感謝する時、やはり神界にはシュタイナー翁と僕との間に友愛の建築が為されているのでしょうか。

そうだと、信頼します。

そして、また今日もこの日記を読んでくださったみなさんとも。

ありがとうございます。

それでは、また。





 
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by toktokpng | 2008-04-23 20:58 | 創作
今日は庭に芝を貼りました。しかし、ぼんやりうっかりしてて、庭の広さを間違っていて、注文した芝が足りませんでした。あはははは。

さて、今日の一節です。

「アストラル体自身はどこから誕生するのでしょうか。私たちを宇宙に織りこんでいる宇宙的アストラル組織から誕生したのです。

この関係は、私たちの体の中のアストラル身体性の小部分と、すべての人間、動物、植物、鉱物、そして、惑星までもが振動し、そこから生まれ出る巨大なアストラルの海との関係に喩えることができます。

アストラル組織とアストラル体の関係は、器の中の液体とその一滴との関係に比すことができます。

一滴のしずくが器の中の液体から存在しているように、一個のアストラル体はかつて宇宙のアストラルの海の中に含まれていたのです。」

ちょっと長いですね。

この「薔薇十字会の神智学」という講演集は、全14回の講義をまとめたもので、紹介した節は、3回目の「元素界と天界・目覚めと眠りと死」というタイトルの章に書かれています。

人は何のために眠るのか。

それは、死と再受肉の関係と相関関係にあるという事が述べられています。

死と再生については、この一連の日記ではなるべく触れないようにいたします。

では、眠りについて。

人は地上で活動している間、アストラル体とエーテル体、肉体と自我が一体となって働いています。

そして、地上ではさまざまな情報や体験を肉体とエーテル体を通じてアストラル体が受け取っていきます。

そのような体験は、アストラルの海の中での完全な調和とはすこし質が異なるので、定期的にアストラル体は、肉体とエーテル体から分離し、その体験内容をアストラルの海に持ち帰って、調和の状態を受け取ってくるといいます。

ですから、寝ている間に、人のアストラル体は若返りを果たし、目覚めの時には人は爽快感を感じるといいます。

この、エーテルからのアストラルの分離という事がうまく行かないと睡眠障害ということが起きてくるのですね。

これを基本情報として、アストラルの海について深めてみましょう。

アストラルとは言葉をたどれば、「星」を意味します。アストラルの海とはどんなものでしょうか。

アストラルの海は、あまねく存在しているわけですが、それが一つの大きな星のようなものだと僕はいつもイメージします。そこには地上で縁のある人のアストラルも常に解け合っていますし、故人やこれから生まれてくる人、別の存在世界で生きている人のアストラルもただよっています。

ここへ、僕らは毎晩帰り、多くのアストラルと信じられないスピードで情報交換をし、そこで得た情報を地上世界の調和と発展のために生かしているのです。

いままで人は無意識的に情報の受け取りと行動を行っていたわけですが、そのようなプロセスを心静かに観察し意識的に行っていこうとする態度がシュタイナーの世界観にはあります。

なにか突拍子もない行をするというようなことではなく、朝起きて、伸びをする、そのときに、例えば「ああ、この伸びという動きは、まるで若葉が芽吹く植物の行為そのものようだ」と意識する事。

こういうことが「伸び」という行為の中に含まれているアストラルの情報に意識的である。ということとつながります。

禅の公案に、作務のなかに悟りを見いだすという事がありますが、日頃日課としている掃除や通勤という行為のなかに、アストラルの海からの情報という事を意識する事で、「今、此処。」という完全性、生きている意味にふと気付く事があるのかもしれません。

シュタイナーは言います。

「(前略)宇宙のアストラル体から携えてきた印象と、物質界からあてがわれた活動を通して外から受ける印象とにわかれています。人類が地球進化の目標に達したとき、この二つの面は調和されます。」

睡眠と覚醒を繰り返しながら、地上で活動する事が、全体の調和へと寄与していく。

その事を意識するだけでも、どんな状況にあっても、「今、此処。」というものを生かされている事への感謝と喜びがあふれてきます。

最近、僕はヨロコビトと名乗る事を心の中で宣言しました。

自分の中で、「そんなんだよー」って思うだけですが。

完全な調和と愛と光りに満ちた、宇宙のアストラルの海の事を思えば、いつでも人は自由なイマジネーションを得る事が出来、そのイマジネーションは、やはり、アストラルの海に美しい花となって実際に生まれでるのです。

最後に、一緒に、アストラルの海を旅してみませんか。


どうです、この広大な海・・・。僕らはどこへでもいき、誰とでもあえます。アストラルは天界とよばれる存在域に浸透していますが、アストラルを通じて、僕らはその世界をもかいま見る事が出来ます。主に、われわれは右脳とイマジネーションをつかって、このアストラルの海を実際に旅する事が出来るのです。

みてください、蝶が飛んでいます。水草が揺れているという事は水中なのかもしれません。あちこちに、きらきらと光を発する花が咲いています。そこに集まる人々の顔には笑みがあふれ、みな若く健康で、光り輝いています。常に美しい音で満たされ、その音はまた、アストラルの乗り物でもあります。地上で起こる事は、この世界にもすべて反映され、その事を通じての調和への道も常に計算され、指し示されています。われわれはその一部を持ち帰り、生活の中において、還元していきます。

大きな事をなす事が、必ずしも全体の調和を作り出すための最適な道であるとは限りません。

アストラルは、ただその日、街路樹のハナミズキの花の美しさを感じ取る事をあなたに情報として与えているのかもしれませんが、その事が、どれほど大きな結果をもたらすかは、われわれには計り知れないのです。

現在に至って、シュタイナー翁が生きた時代より、さらにこのアストラルを通じた情報の早さというものは早まっていると、僕個人は感じています。

ですから、われわれは一層、直観と愛に基づいた行動を、慣習の中から生み出していく事を求められているように感じています。


今日も、長文になってしまいましたね。

読んでくださった方、ありがとうございます。


それでは、また。









 
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by toktokpng | 2008-04-22 18:08 | 創作
みなさんこんにちは。

さて、今日の一節です。

「一見奇妙なことですが、薔薇十字の叡智は霊視能力を通してのみ見いだされるものでありながら、通常の悟性によって理解できるということです。」

昨日の日記において、人間の肉体が、人間存在の一部分でしかないこと、また、その広がりの中で、肉体存在がどのような位置を占めるのかを知るときに、まるで虹の本質を体験するような感覚を覚えるであろう事が示唆されました。

その日記のコメントにおいて、幾人からか虹の本質の体験という事にレスポンスがありました。

「虹—スペクトラム」という事について、シュタイナーに関わる二つの事を思い出します。

一つは、色彩についての講義のなかで、シュタイナーが語った以下の事です。

手許にその書物がないので、覚え書きとなります。

「ゲーテは、当時新しく提唱されたニュートン卿の色彩についての理論を知り、さっそく自分でも試してみようと思い、プリズムを手に入れました。彼は窓から差し込む光を分光器にあて、その先に見えるであろう虹を観察しようとしました。しかし、そこには何もなかったのです。そこには、別れた色ではなく、ただ全体としての光がありました。この体験から、ゲーテは独自の色彩論を展開するきっかけを得たのです。」

昨日の日記のコメント欄に少し書きましたが、ゲーテはニュートン卿と同じ同胞団に属していたと考えられますが、その秘教的な叡智をニュートン卿とは別の形でヨーロッパ文明に影響させる必要を感じたとも言えます。

この、ゲーテの方向は後にホリスティックな学問が西洋文明の中に形成されていく上で、重要な衝動となっていったように思えます。

さて、もう一つの挿話です。

これは、伝聞の形で残されたものを、僕もどこかで読んで、その光景が頭に焼き付いている一場面です。

シュタイナーは後半生とても忙しく講演活動を行い、睡眠時間は一日3時間ほどだったとも言われています。定かではない伝聞では、彼はまわりの人に対し、
「ああ、今日は3時間も寝る事を必要としてしまった。正しくは睡眠はもっと短い時間ですむはずなのに」
というような内容のことを漏らしていたとも。
そのような生活の中、シュタイナーは妻であるマリー・シュタイナーと過ごす数少ない時間のなか、蝋燭の光に分光器をかざし、そこから得られる虹の色を指し示しながら、光の本質や、人間存在の多重性や広がりについて、熱っぽく語っていたという事です。

その蝋燭の時間のいかに詩的であったことか、シュタイナーを信頼し耳を傾けるマリー・シュタイナーの愛情とともに美しい光景として目の前に浮かんでくるようです。

このように、虹をどう捉えるかという点において、二つの意識の働きがそこに見いだされるように思います。

感覚をひらき、霊性に根ざして存在にむきあったとき、分析し理解する必要のないエネルギーの総体として何かを感得できるとします。

例えば僕が木々や花たちに心を開いたとき、木々や花がおおくの物語を語りだし、今、ここで、銀杏の若葉が萌えいずることから愛を感じるとすれば、それはシュタイナーの言うような霊視に近い存在の感得の仕方かもしれません。

一方で、本日の一節にあるように、そのようなエネルギー存在のあり方が事実であるからこそ、「悟性によって演繹され理解できる」事でもあるのです。

シュタイナーは行き過ぎた「悟性」と、行き過ぎた「感性」の両方の中間に位置する「意識」という事をとても大事にしました。

現在の人間社会は多分に悟性にかたよったルートを選んでいます。

そのアンバランスさから、一方で、霊的な事実については感覚的に述べられることが多くなっています。

しかし、どちらにも偏らず、事実を事実として認識する道によって、唯物性を超えた事実をどこまでも高く獲得する事ができる。

この事が、シュタイナーの生涯を通じての態度でした。

虹を分解し、観察する態度。それを常に全体へと還元し、そのダイナミズムをこそ認識する事。

そのような視点が、われわれの日常生活を豊かにし、見過ごしてしまいがちな世界からのサインを受け取れるようにしてくれる道を切り開くようでもあります。

虹の七色ということで、シュタイナーが概観した人間の7分説をご紹介して、今日は終わりにします。

くれぐれも、これらが連続性をもって存在しているという視点を失わないよう。

これらをみようとして、人間の前にプリズムを置いたとき、あなたもきっとゲーテのように、

「そこには、七つに分かれたものは何もない、ただ愛という光が存在しているだけではないか!」

と、言うのでしょうから。


人間の七つの構成要素

1. 肉体

2. エーテル体 もしくは 生命体

3. 感覚魂がはまりこんでいるアストラル体(または魂体)

4. 自我

5. 意識魂と一つになった霊我(マナスとも呼ぶ)

6. 生命霊(ブッディとも呼ぶ)

7. 霊人(アートマン)


すこし、小難しい言い方をするのもシュタイナーの特徴です。

それは、僕の気質にもあってるので、大好きなのですが、言ってる事はシンプルなのです。

今日も長文の日記につきあってくださった皆様、心より感謝いたします。

ありがとうございました。
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by toktokpng | 2008-04-22 18:07 | 創作