「らうん」とは僕がかつて暮らしたパプアの言葉で「旅する・ぶらぶらする」という意味です。光を描く画家、八坂圭が日々を見つめ、愛し、感じた事を福岡からつづっています。


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最近Book -スッタニパータ-

ブッダのことば スッタニパータ 訳-中村元

この本はパプアニューギニアにいたときに、現地の言語を研究しにきていた若い研究者の方に教えてもらった本でした。言語学の視点からみてもとても面白いという事でした。
日本にかえってきてさっそく買ったのですが、なかなか読み進みませんでした。本の半分以上が注釈で、一つ一つの句にパーリ語の原典ではどうなっているか、サンスクリットの解説本ではどう捉えられてるか等が書かれています。
生真面目に一つずつ注釈をあたっていると、すぐに疲れてしまって前に行かないのです。
それで、しばらく寝かせていたのですが、最近すらすらーっと読み終えてしまいました。

本ってそういう事ありますよね。手に入る時期、読む時期、再度読む時期など。
いろんな偶然のきっかけが重なってすんなり自分に入ってくるとき、本にも出会いというものがあるんだろうなあと直感します。

で、スッタニパータですが、この言葉はスッタが「たて糸」「経」の意味で、ニパータが「集成」の意味だそうです。たて糸が集まったものということなんですね。ハタオリでは、まずたていとがきちんと準備されていないと布は織りあがりません。ハタオリではたて糸を張ってそれから何ヶ月もかけてよこ糸を重ねて、立派な布を織り上げていくのですが、「目覚めた人が言われた、人が生きる事において、たて糸となることの集大成ですよ」という本なのでしょう。さあこれだけのたていとを張りましたよ。ここに毎日一本ずつよこ糸重ねてよい人生を歩んでください。と、そういう本なんだなと思いました。

訳者の中村元さんの本は他にも読んだ事があるのですが、仏の教えを形式からではなく、最初にブッダが話し、立ち振舞った時の臨場感を捉えようという熱意がとても伝わってくる方だとおもいます。

この本もそうでした。スッタニパータは中村元さんの解説によると、ブッダが話したその時代に一番近い原典の一つといえるそうで、シャカ族のゴータマ・ブッダさんがどんな時代背景で、どんな風に捉えられてたのかを想像するには最も適した書だと言う事です。

注釈と解説を通じて、中村さんが訴えていることは、神格化され、神のように上げられてしまう以前のブッダの姿がそこにあり、目の前に生身のすばらしい人として居たんだという事。その時代修行僧は多数おり、みなから認められる人はブッダ(目覚めた人)と呼ばれていたんだという事。

そのようにして人間として捉えていくとき、なにか自分には出来ようも無い難しい戒律を述べてるのではなく、人間なら誰でも出来る簡単な事だよ、出来てる人いっぱいいるんだよ、あんたもできるよ。と言ってるように聞こえてきます。

それから、その時代、インドは農作に豊かであったこと。つまり、太陽の光とたびたび氾濫する河のおかげで、大した労働もせずとも収穫を得られ、飢えるということが無かったという背景。だからこそ、人々は共同作業を発展させず、個人の内面をかえりみる時間を得て、修行者が増える内省的傾向をもっていたという見解。
南半球のあたたかい大地の植物の恵みというのは、パプアでの生活からよくわかります。彼らはいつも「この国にいて、お金がないから『飢える』ってことはない。食べ物はつねに『ある』」と言っていました。たしかにスーパーの肉だとか輸入物の野菜なんかはお金がないと買えませんが、食べ物は『ある』と。
しかし、それで内省的にということはパプアに関しては無いように思いました。共同や共有ということが社会インフラになっていて、そのなかで人生というものは紡がれていくようでした。
そんな違いもありつつ、自分のそのような経験から、食物は自然が与えてくれる生活の中で、人間の努力がより形而上のものに向けられるのは自然な事だと感じられるようになりました。

ですから、ブッダが解かれた事というのも、「そのようなインドで、」という前提を思い起こしながら捉えていくと、より本質的な事がみえたり、自分がいる環境では字義通りにとると、誤謬を生み事になるなということも見えてきました。

なんせ、この日本という場所では、昔から耕し、植え、刈り取る事が重労働で、みんなで協力して、必死でやらなければ「飢え」たのですから。今では分業化して直接土を耕す人の方が少ないですが、働かなければ「飢え」るのは何も変わっていないのですから。

おのずと、違ってきますよね。

ですから、「目覚めた人」というのを、同時代や異時代の、同じ国のひと、ブッダよりは身近な人で、でも立派だなあと思われる人と比べて、それでもブッダには及びもしない、あちらは神なんだからと思うのではなくて、きっとみんなの周りにもいると思うんですよ。目覚めちゃってる人って。けっこう近所のおじさんみたいに。
そういう人の話もちゃんときこうよっていうことかなと。もしくはブッダのことばも近所のすげーおじちゃんが言ってるんだっておもって聞きなよって事かなあと。

最初に言葉を発した時はそういう生き生きとしたものだったかもしれない。だけど二千年以上の間にいくつもの言語を渡り歩き、時代とともに言葉もかわり、何かにがっしりと塗り固められた表面しか普通では見えない。
しかし、言語学的手法を使い、学び、研究すれば、そのさきにある生き生きとしたものに出会える。
言語学の力というのを、たしかに感じ取れる本でした。

二千年たって、もしこのブログがなにかで残ってても、判別不可能で呪文みたいに思われてしまうでしょう。たいがいいい加減なこと書いてあっても、なんかいいこと書いてあるとおもわれたりしかねません。

で、ちゃんと学究の徒がいて、「うん、これは駄文だ。」とちゃんと判別してくれたら、そしたら、この時代に書かれたいいものも、きっと理解してくれる人がいるでしょう。

ああ、言葉を掘り下げて時空を旅させてくれてるんだなあと。

そんなふうに思える一冊でした。
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by toktokpng | 2005-04-17 02:16 |