凡人だからこそ
2006年 02月 07日
仕事の帰り道。携帯でブログを書いて、それを読んでくれる人がいる。なんだか二倍生きてる気がして嬉しいです。読んでくれた人から、「携帯でかくような(軽い)内容じゃないよね」と感想をもらったりしました。
普通の人なので、一人のじかんには、大きなことでも考えてないと、すぐ、ボーっとしてしまうのです。
今夜はニューギニアに行く前のニ、三年、本を読んで親しんだ「禅」の事なんかを思い出しています。
「為」という事の意味をいろんな意味で考えることを禅は教えてくれました。
無為の真人という言葉がありました。二面性のない、完全な人は「なにかの為」になにかを為すことはなく、無為の行いが、その時所位において最良の行いになっていると。そのように理解しています。
さて、僕らは働いて「誰かの為」を思い、仕事をしていますが、それが最良の行為になる事が何割あるでしょうか。
ありがためいわくになることもしばしば。
今日だれかのためになにを為せただろうか。と、1日のおわりに思う人は良い人でしょう。
しかし、1日の終わりに何の為でもないなにかを朗らかになせる人は素敵な人です。
なにかの「為」ばかりかんがえてると、なぜか人は行き詰まってしまうのです。ほら、「人」が「為」に近づいて行き過ぎると・・・。
偽の人生を送らぬよう、いろいろ忘れてみることも大事ですね。
普通の人なので、一人のじかんには、大きなことでも考えてないと、すぐ、ボーっとしてしまうのです。
今夜はニューギニアに行く前のニ、三年、本を読んで親しんだ「禅」の事なんかを思い出しています。
「為」という事の意味をいろんな意味で考えることを禅は教えてくれました。
無為の真人という言葉がありました。二面性のない、完全な人は「なにかの為」になにかを為すことはなく、無為の行いが、その時所位において最良の行いになっていると。そのように理解しています。
さて、僕らは働いて「誰かの為」を思い、仕事をしていますが、それが最良の行為になる事が何割あるでしょうか。
ありがためいわくになることもしばしば。
今日だれかのためになにを為せただろうか。と、1日のおわりに思う人は良い人でしょう。
しかし、1日の終わりに何の為でもないなにかを朗らかになせる人は素敵な人です。
なにかの「為」ばかりかんがえてると、なぜか人は行き詰まってしまうのです。ほら、「人」が「為」に近づいて行き過ぎると・・・。
偽の人生を送らぬよう、いろいろ忘れてみることも大事ですね。
by toktokpng
| 2006-02-07 23:45