日本寺
2006年 07月 22日
あたらしく制作にかかる準備を進めています。
引っ越しをして、制作のスペースや道具などを整え直して、段々体制を整えていきます。
働きながら、子育てしながら、時間を縫うようにして一枚の絵につながる時間をつないでいきます。それはなんだかビーズ細工のようです。ちいさな時間の切れはしをつないで、一つの形にする。なかなか根気のいることです。
生活の中で「時間のビーズ」をみつけて、その小さな穴に糸を通していく。
このブログもそういう行為であったはずです。
随分「疎密」がありますね。
ここのところブログの「疎」っぷりは、ぼくのビーズ細工もあまり進まなかった事の反映かもしれません。会社と家の往復、育ち行く子どもたちとの楽しいけれど振り回される時間。その連続で、時間がだららんと帯になり、ビーズをみつけることが出来なかったようです。
とはいえ、土日を利用して今月、二回ほど郊外へいってきました。
やはり、僕は絵を描く種をもらうとき、どうしても、土や木々、森の精気のなかで時間を過ごさなければ、納得いかないようです。
今回は千葉の南房総、鋸山にある日本寺というところに行きました。
先週の事です。
南房総の気候は「亜熱帯」と「温暖湿潤」気候の境にあると、ロープウェイ内の案内嬢のアナウンスでいっていました。
たしかに山には熱帯性の植物も多く、土から放たれる香りはパプアニューギニアで山歩きをした時の記憶を鮮やかに呼び起こすものでした。
寺の案内には、「どなたでも参禅ください。」とあり、住職に連絡をとり、座禅を教えて頂きました。
「あたまを空っぽにして、ほったらかして、ただすわる」 それだけですよ。
と、おしえてもらって、座ると、次から次に思い浮かぶ思い浮かぶ・・・・
いろんな記憶、考え。
そういう「思い」がすべて「我」の働きなんですよ。
と、教えてくださいます。「我」の働かない時間をつくる術が座禅なんですよ。と。
「我」がいろんな苦しい事のもとだとわかり、その働きを止めると、自分が「生かされてる」という当たり前の事を思い出しますよ。と。
「生かされてる自分」。なんと、自分ではわかってるつもりになってた、僕の人生のお題目だと思ってた事を、僕自身すっかり忘れて自分が「生きている」というつもりになってた事に気づきました。
人は人との出会いも、その結果も、すべて一人でなし得る事はないのに、全部自分で選んできた事だと思っていますね。そう考えるから苦しいけれど、僕らは生かされてるのだと思い出すと、楽になります。
「時空」を描く。という事をずっと、たしかこのブログでも言っていますが、
時空の中で人は連続体。空間の中で体は止まっていても時間は動き、時空の中での人は一本の枝や木のようにつながっています。
そう、時空の中では、人は植物のようなものです。
植物をみていると、芽を出し、葉をはり、花をさかせる姿に、絶妙な叡智を感じます。
そして、その叡智が植物を生かしていると感じます。
僕らの人生も叡智によって、見守られ、生かされているものだということ。
必要なときに枝を張り、根を伸ばし、花をさかせて、実をつけます。
何一つ、自分だけの力じゃないんだという事。
そんな大事なことを忘れていた自分に気づきました。
山のなかでつらつらと、新作の種になりそうなアイデアスケッチをしながら
なかなか形になりそうにない種ばかり集めながら、
でも、いま、これが、必要な時間なんだろうなと思いながら、
時空の中の「僕」という植物が、うねうねとねじれながらもまだ
育てられている実感をもって、山を下りました。
一枚の絵に通じる時間の鎖は、決してビーズ細工ではないんだよな。
毎日の仕事も生活もブログも絵を描く時間も、分かれてはいない。
分けて考えるところに錯覚がある。
そう思って山を下りたんですけどね・・
書こうとする自分は、なぜか仕事をしてる自分とは切り離して捉えようとしてしまいます。
描くことも、書くことも、強い我の働きです。
しかし、そうやって表現しながら、ピントがあってくるのかもしれません。
長い文章、読んでくれてありがとうございました。
引っ越しをして、制作のスペースや道具などを整え直して、段々体制を整えていきます。
働きながら、子育てしながら、時間を縫うようにして一枚の絵につながる時間をつないでいきます。それはなんだかビーズ細工のようです。ちいさな時間の切れはしをつないで、一つの形にする。なかなか根気のいることです。
生活の中で「時間のビーズ」をみつけて、その小さな穴に糸を通していく。
このブログもそういう行為であったはずです。
随分「疎密」がありますね。
ここのところブログの「疎」っぷりは、ぼくのビーズ細工もあまり進まなかった事の反映かもしれません。会社と家の往復、育ち行く子どもたちとの楽しいけれど振り回される時間。その連続で、時間がだららんと帯になり、ビーズをみつけることが出来なかったようです。
とはいえ、土日を利用して今月、二回ほど郊外へいってきました。
やはり、僕は絵を描く種をもらうとき、どうしても、土や木々、森の精気のなかで時間を過ごさなければ、納得いかないようです。
今回は千葉の南房総、鋸山にある日本寺というところに行きました。
先週の事です。
南房総の気候は「亜熱帯」と「温暖湿潤」気候の境にあると、ロープウェイ内の案内嬢のアナウンスでいっていました。
たしかに山には熱帯性の植物も多く、土から放たれる香りはパプアニューギニアで山歩きをした時の記憶を鮮やかに呼び起こすものでした。
寺の案内には、「どなたでも参禅ください。」とあり、住職に連絡をとり、座禅を教えて頂きました。
「あたまを空っぽにして、ほったらかして、ただすわる」 それだけですよ。
と、おしえてもらって、座ると、次から次に思い浮かぶ思い浮かぶ・・・・
いろんな記憶、考え。
そういう「思い」がすべて「我」の働きなんですよ。
と、教えてくださいます。「我」の働かない時間をつくる術が座禅なんですよ。と。
「我」がいろんな苦しい事のもとだとわかり、その働きを止めると、自分が「生かされてる」という当たり前の事を思い出しますよ。と。
「生かされてる自分」。なんと、自分ではわかってるつもりになってた、僕の人生のお題目だと思ってた事を、僕自身すっかり忘れて自分が「生きている」というつもりになってた事に気づきました。
人は人との出会いも、その結果も、すべて一人でなし得る事はないのに、全部自分で選んできた事だと思っていますね。そう考えるから苦しいけれど、僕らは生かされてるのだと思い出すと、楽になります。
「時空」を描く。という事をずっと、たしかこのブログでも言っていますが、
時空の中で人は連続体。空間の中で体は止まっていても時間は動き、時空の中での人は一本の枝や木のようにつながっています。
そう、時空の中では、人は植物のようなものです。
植物をみていると、芽を出し、葉をはり、花をさかせる姿に、絶妙な叡智を感じます。
そして、その叡智が植物を生かしていると感じます。
僕らの人生も叡智によって、見守られ、生かされているものだということ。
必要なときに枝を張り、根を伸ばし、花をさかせて、実をつけます。
何一つ、自分だけの力じゃないんだという事。
そんな大事なことを忘れていた自分に気づきました。
山のなかでつらつらと、新作の種になりそうなアイデアスケッチをしながら
なかなか形になりそうにない種ばかり集めながら、
でも、いま、これが、必要な時間なんだろうなと思いながら、
時空の中の「僕」という植物が、うねうねとねじれながらもまだ
育てられている実感をもって、山を下りました。
一枚の絵に通じる時間の鎖は、決してビーズ細工ではないんだよな。
毎日の仕事も生活もブログも絵を描く時間も、分かれてはいない。
分けて考えるところに錯覚がある。
そう思って山を下りたんですけどね・・
書こうとする自分は、なぜか仕事をしてる自分とは切り離して捉えようとしてしまいます。
描くことも、書くことも、強い我の働きです。
しかし、そうやって表現しながら、ピントがあってくるのかもしれません。
長い文章、読んでくれてありがとうございました。
by toktokpng
| 2006-07-22 10:02
| カルチャー